なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信復刻版(160)

 昨夜はクリスマスイブ、船越教会でもキャンドルサーヴィスがあり、その後祝会を持ちました。

この日は、キャンドルサーヴィスが始まる前に、2名の方から電話連絡が入り、体調が思わしくな

く今夜の集まりは欠席しますということでした。一人の方は急な病気で緊急入院しましたので、お

連れ合いも来れなくなりました。3人とも、キャンドルサーヴィスと祝会の常連でしたので、今年

は参加者が少な目ではないかと思っていましたところ、小さな子どもたちが8人も来てくれて、総

計40名ほどになりました。キャンドルサーヴィスの後、祝会が行われ、持ち寄りの多彩なお料理が

四つのテーブルに一杯並び、大人で運転しないお酒の飲める人にはワインが数本振舞われました。

午後9時前には散会し、それから後片付けをして、9時半には終わりました。私は今日シャワーの会

(路上生活者のパトロール)がありますので、船越教会に泊りました。今日はシャワーの会に参加

してから、鶴巻に移動します。

 今日は、「黙想と祈りの夕べ通信(160)」復刻版を掲載します。    



       黙想と祈りの夕べ通信(160[-3]2002.10.20発行)復刻版

 9月の「老いること」を語る礼拝で、今年も高齢の方々を覚えて共に礼拝を守りました。例年の

ようにその後私は礼拝に来れない方々を出来るだけ見舞い、訪問しています。お訪ねする方々は、

一年毎に加齢による衰えの中で、それぞれ命を担いで、弱さを訴えられる方もありますが、黙々と

歩まれています。中には自宅で長年病で不自由な体の妻を介護している夫の方も、段々と体も弱っ

て来て、膝に水がたまり、その水を抜き痛みをこらえながら二人で生活しているご夫妻もありま

す。人間の老いという自然を生きる厳しさを思わされます。当教会に所属する高齢の方々は経済的

にも家庭的にも全体に恵まれておられると思います。けれども、中には経済的には恵まれていても

家族には恵まれず、ホームや病院で独りの方もいらっしゃいます。見舞う者もなく、看護士さんや

介助者の方々の支えの中で過ごしています。私は時々見舞ったり、お訪ねしたりして、イエスの福

音と教会の宣教はこのような方々のところにこそあるということを再認識させられています。みな

さんもどうか直接にお訪ね出来なくとも、これらの高齢の方々を覚えてお祈りください。

 上記の私の発言に続いて、伝道師から以下のような発言がありました。今日は神学生時代に奉仕

した名古屋の教会のメンバーご夫妻が礼拝に出席され、懐かしく嬉しかった。今月末に教団総会が

開催される。教団はこれまで「合同のとらえなおし」や「ヤスクニ天皇制」や「差別」の問題を教

会の宣教の課題として取り組んできた。教団は宗教団体法の下国家によって出来たが、戦後教団に

残った教会や人々は、日本の中で一つなる主を仰いでいこうと教団に留まった。その中で教団はヤ

スクニ天皇制や差別などの問題にも取り組んできた。ところが今度の教団総会で財政的な理由でそ

のような取り組みが一掃されそうである。自分の両親が共に牧師だったので、小さい時から教区総

会やいろいろな集会に両親に連れて行かれた。だから教区や教団も家のように感じられる。神のみ

心は小さくされた者と共に歩むことだと思う。そのことを求めて教団はこれからも進んでいかなけ

ればならない。祈るのみだ。み心が現れますように。

 続いて一人の方から発言がありました。私も伝道師の言われたことと重なるが、今日婦人会でI

さんが用意してくれた沖縄の歴史のビデオ(沖縄の高校生用)を2巻観た。琉球王国琉球処分

戦争の時の悲惨、美しい海等。たまたま昨日沖縄キャラバンで来られたI教会の方が、戦後米軍に

よる収容所に収容された人たちの中から、自然発生的にキリスト者が集まり、百数十名が祈り合う

ようになった。それがI教会の戦後の始まりであり、その後自由になってそれぞれの地に散って行

ったという話を聞いていた。ビデオにその収容所の場面が映し出された。ここがそうだったのか

と、体が震える思いだった。自分が今回沖縄のことに関わり、教団総会傍聴に行こうとしているの

は不思議である。しかし、自分の中で沖縄のことが今までもいろいろな機会に気になっていた。小

さいときに「ひめゆりの塔」という映画を観たショック。名古屋時代、沖縄のS伝道所の信徒Aさ

んに出会ったこと。彼女はその熱心さによってH牧師を沖縄キリスト教短大から小さな伝道所に招

聘して、先生の礼拝説教に対しては、前もってテキストを自分で読んでおき、終わってから質問し

たという。その彼女の生き方に感動したこと。そして最近「ナビーの恋」という映画を偶然観たこ

と。7月の神奈川教区婦人集会でE.T.さん、Oさんが沖縄から来られて、沖縄の話を聞いたこ

と。その後沖縄ツアーに誘われたこと。自分からというよりも、導かれるままに沖縄のことに関わ

るようになった。これからも直感的に感じたことを大事にして、それを忘れないで歩みたい。1

0・15集会を明後日開く。自分はどこに導かれて行くのか楽しみである。真剣な祈りをもって不

思議な導きを大事にしていきたいと思っている。

 また別の方が、10年ぶりに行ったという野毛にあります福音喫茶メリーのことについて話され

た。



      「聖ミカエルの戦い」(『ルターによる日々のみことば』より)

 さて、天では戦いが起こった。ミカエルとその御使いたちとが、龍と戦ったのである。龍もその 使いたちも応戦した。
                               黙示録12:7

 ここで天の戦いについて言われていることは、地上の見える教会においても起こらねばなりません。そしてこの戦いは、天の霊に関する戦いではなく、信仰によってキリストの国に属するすべてのキリスト者に関するものであることと、理解しなければなりません。

 み使いたちは世をまどわしに導いた悪魔に対して戦っており、地上においてもこのまどわしに対抗して戦いがあるだけです。それゆえにこそ、この戦いは、よろいや、剣や、やりや、銃や、その他の肉体的、人間的な力によって戦うのでなく、みことばのみによって戦われるのです。「彼らは彼らのあかしのことばによってうち勝った」と書かれているとおりです(黙示録12:11)。このあかしによって(すなわち、みことばの宣教とそれに対するあかしによって)、彼らは、悪魔が今信じられ、のちに目で見る救いを彼らから取り去ろうと、あちらこちら歩き回ろうとする時、悪魔を天から追い出すのです。
                                1544年の説教から