なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

父北村雨垂とその作品(153)

 今日は2012年12月31日です。今日で2012年も終わります。この一年間ありがとう。また新しい年、よろ

しくお願いします。

 今日は「父北村雨垂とその作品(153)」を掲載します。


           父北村雨垂とその作品(153)
  
  原稿日記「一葉」から(その36)

 私が以前に記しておいたコペルニクスを例としたカントの理解をながながと引用したのは、禅における

菩提達磨形而上学とみなした詩の偉大なる創造者とみることがその価値において同じ様に高い水準にあ

るものと考えたからである。即ち菩提達磨の無心論であり、その形而上学的であり、また同時に詩がある

ことを実証した最初の禅者であると考えられるからである。もともと禅とは心であり、一達磨のいわゆる

無心論と後の学者が称する形而上学であり、同時に詩ともみられる最初のものと考えられるからである。

 (―註 以上の菩提達磨無心論は中央公論社版世界の名著『禅語録』、柳田聖山著を参考にした)。も

とより禅の源泉は天台の止觀と同様佛陀の説かれた法華経であることは相異ないのであるが、今日に至る

まで綿々と続けられ、少しも衰えをみせない偉大な手柄は正に菩提達磨に帰するものと断じて差支えな

い。かつてはダダイスト高橋新吉と號した高橋新吉がたちまち超現実主義者となり、やがて鎌倉に禅を尋

ね、今日に至っている心境も、何かが私には理会できるように想われるのである。このことは本誌編集を

擔任されている片柳哲郎君にも彼氏の本を読めと云ったこともあると記憶しているし、東大を優秀な成績

で出て来た理論家故福岡阿弥三君が川柳界に飛び込んで来た機縁など、ひとしお懐かしく想い浮かべた次

第である。
                         1980年(昭和55年12月2日

     ETWAS

 カントは現象の奥に永住普遍なる「物自体」を考えていたがそれをショーペンハウエルは意志であると

して「私の意志というのは、プラトンイデアと殆んど同じに解している。と云ひこの論理のうえに彼の

哲学を展開したと考えられる。それとニーチェが断わるまでもないが、世界を「権力意志」なりと確信し

た。三者のこの同じ形而上学が三様に語られているところに三者の性格が著明に表われているところに私

は注目するものであるが、世界の奥に未だ「何か或るもの」(etwas)を捨てかねているところに吾々の

興味がある。而しそれ以上に深く入り込むことが無駄であらうことも必然的に尾を引いている。

                           1981年(昭和56年)3月29日

     
      川研 三月號 399号  1981年(昭和56年)3月

 陸を歩けか 鯰(ナマズ)は髭を置き去りに

 昏々と降る雪 アナキストの夢など

 闘争の豊庫と観るガシベリヤを

 誰が聴く 般若の蒼白き鼻りょう

     
      川研 四月號 400号  1981年(昭和56年)4月

 浜木綿(はまゆう)の夢二と死なむ水平線に風に

 犬の仔に蛇の子必死に首を構(かま)え

 母は氷河を歩るくも胚芽の愁ひなき夢を

 龍膽(りんどう)の わくら葉を浴び陽を浴びて

 太陽(ひ)と月を友に泣くなと私(なんじ)の鬼が