なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

「神われらと共に」(クリスマス礼拝説教)

    「神われらと共に、マタイ1:18-23 2012年12月23日船越教会クリスマス礼拝

・今年もクリスマスを迎えることができました。ただ私たちが生活している現在の日本の国、日本の社会は平和な国、平和な社会とは程遠い状態です。むしろ先週の衆議院選挙の結果からも明らかとなってきましたように、自然や人間の命を優先し、社会の中で様々な困難、苦しみ、痛みを持った人々のことを第一に考えるのではなく、経済優先の社会、強い国家を求める方向が選択され、自民党復権しました。自民党政権では、憲法改悪がもくろまれ、原発再稼働が進められることになるでしょう。平和を求め、自然や人間の命を優先する生き方と政治を求めて、平和憲法を堅持し、原発再稼働、オスプレイ配備に反対してきた者にとりましては、これからは、一段と厳しい状況を強いられると思われます。けれども、「〈いのち〉を生かす神の働きを『神の支配』(=神の国)」と呼んだ」(上村)イエスに倣って生きようとしている私たちは、どんな状況の中でも、イエスを信じ、なすべきことをなしていくのみです。そのような思いを持って、クリスマスの時を共にしたいと思います。

・今日のマタイの福音書のイエス誕生物語には、2章16節以下にヘロデの嬰児虐殺の記事が出て来ます。占星術の学者によってベツレヘムに世界の救い主である幼子の誕生を知ったヘロデ大王は、ベツレヘムとその周辺一帯にいた2歳以下の男の子を、一人残らず殺させたというのです。イエスが誕生した時のユダヤの国、ユダヤの社会はこのヘロデ大王支配下にありました。ヘロデ大王は、自分の権力を脅かす幼子の誕生を知って、何の罪もない沢山の幼子の虐殺に走ったという人物というわけですから、「〈いのち〉を生かす神の働き」に全く逆らう政治を行っていたと思われます。そのようなヘロデが支配するユダヤの国のベツレヘムの馬小屋でイエスはお生まれになったというのです。

・先ほど読んでいただいたマタイによる福音書の1章18節以下では、イエスがだれからどのようにお生まれになったのかが記されています。マタイがこれを書いたのは、イエスが誰なのかを示すために、どうしても、知らせておく必要があったからです。たとえば、私たちも、ある人を誰かに紹介するときに、その人がどういう人であるかいろいろ説明して伝えようとします。紹介しようとする人がその人の両親をよく知っているならば、あのご夫妻がお父さん、お母さんである・・・さん、というようにです。マタイも、イエスが誰なのかを示すために、母マリアや父ヨセフのことを、ここで書いているのです。

・ただ、その人を知るためには、そのような間接的な紹介ではなく、その人と直接交わることが大切です。イエスとは直接会うことは出来ませんが、福音書に記されているイエスの生涯や言葉や行いを通して、自分の想像力で描いたイエスと話したり、イエスだったらどうするのかを聞いてみることが大切です。

・マタイは述べます。「マリアはヨセフと結婚することになっていたが、聖霊によって、すでにおなかに赤ちゃんができていることがわかった・・・」。このことは、生まれてくる子の本当の父は、人間ではなく神であること、イエスは、天の神の子どもであることを示しています。

・ところで、マリアのおなかに赤ちゃんがいることを知ったヨセフは、マリアと夫婦にならない方がいいのではないかと思いました。マリアから生まれてくる子は自分のこどもではないからです。ところが夢の中で天使が現れて「ヨセフ。おそれないで、マリアを妻としてむかえなさい。マリアのおなかの中の子は聖霊によって宿ったのです」といいました。そこでヨセフはマリアと結婚しました。

・このこともイエスがどういう人なのかをみんなが知る上で、マタイにとってはとても大切なことでした。それは、ヨセフの遠い先祖が、ダビデという王様だったということです。もうずいぶん前から預言者が「やがて、ダビデ王の子孫の中から、救い主が生まれる」ということを、人々に知らせていました。ヨセフがマリアと結婚することによって、イエスダビデの家系[血筋]に入り、その子孫になりました。このことは「イエスこそ約束された救い主です」ということのひとつの証明になるのです。

・そしてもう一つ大切なことは、それは天使が生まれる子につけなさいといったイエスとう名前です。ふつう両親は、子どもに、こんな子になってほしいという願いをこめて、名前をつけます。神がその子につけるように言われたイエスという名前は、ヘブライ語で「神さまは救う」という意味です。

・マタイによる福音書のイエスの誕生物語では、ダビデの子孫であるヨセフと婚約していたマリアが聖霊によって受胎し、その母マリアから生まれたイエスの誕生が、イザヤの預言の実現として描かれています。

・「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。/その名はインマヌエルと呼ばれる」。この名は、「神は我々と共におられる」と言う意味である(マタイ1:23)。と言われています。マタイにとって最も大切なことは、イエスが「インマヌエル」(神は我々と共におられる)であるということなのです。

・マタイによる福音書の最後には、復活されたイエスが、生前弟子たちに指示しておいたガリラヤの山で会う場面があります。そして、そこで11人の弟子たちに向かって、「すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼(バプテスマ)を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい」という派遣命令が与えられます。そしてその最後にこういう言葉があります。

・「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(28章20節)。ここも内容的にはインマヌエルと言ってよいと思います。

ユダヤ教のラビであるハロルド・S・クシュナーという人が、水頭症の子どもを育てて、その子が亡くなった経験をしている方ですが、『なぜ私だけが苦しむのか、現代のヨブ記』という本を書いています。大分前にそれを読みました。この本の第2版の序文で、クシュナーは以下のように述べています。
「この本を読んだ人たちからもっともよく問われる問いがあります。あなたは奇跡を信じていますか、という質問です。もちろん私は奇跡を信じています。しかし、その奇跡は私たちが求め、思い描いているような形で得られるものとは限りません。むしろそれは、奇跡を見るために私たちが努力して見つけ出さねば解らないものだと思います。絶望的な症状で死を目前にした子供の親が奇跡的な治癒を願って祈り、その子の伯父、祖父や祖母、そして教会や寺院の信者たちが共に祈りを捧げても、その子供が死んでしまった時、私たちは奇跡は起こらなかったと考えてしまうのでしょうか。私たちが共に捧げた祈りは徒労に帰し無駄に終わってしまったというのでしょうか。

 むしろ、それはひとつの奇跡なのではないでしょうか。たしかに、その子供が生きかえるという奇跡は見られませんでした。私たちの世界には治すことのできない病気もあるものです。かすがいともいうべき大切な子供を亡くし、この上ない苦しみに身も心も引き裂かれてしまいそうなこの夫婦が、離婚して引き裂かれることなく夫婦として生きていることが奇跡なのではないでしょうか。あるいは、共に祈りを捧げてみても、何の罪もない子供が病気にかかり死んでしまうこの世の現実を目の当たりにした信者たちの信仰が、死んでしまうことなく生き続けいていることが奇跡なのではないでしょうか。弱い人たちが強く生きていくのを見たり、臆病な人たちが勇気を得たり、利己的で自己中心的な人が他人を思いやることができるようになるのを見る時、私たちは奇跡が生じるのを目の当たりにしているのです」。
 「私たちが苦難にみまわれ絶望の淵にいる時、私たちを新しく生まれ変わらせる力を与えて下さるのは、神の存在以外にはないように思います」。

・このクシュナーによれば、例えば病気の子どもの癒しを求めて奇跡を信じるということは、たとえその子が死んだとしても、その子のために奇跡を祈るほどにその子の命を大切に思い、行動する両親をはじめその子を思う周囲の人々の存在そのものが奇跡ではないかというのです。

・インマヌエル(神は我々と共におられる)。滝沢克己流に言えば、信仰者であろうが、誰であろうが、その人がどのような人であろうが、すべての人の足下にこのインマヌエルの現実がある。たまたま信仰者はそのことを知っているに過ぎないのだということになります。

・「〈いのち〉を生かす神の働きを『神の支配』(=神の国)」」を信じ、その神の働きに身を委ねて生きたイエスとイエスに従った人々には、クシュナーが言うところの奇跡が起こるのです。インマヌエル(神われたと共に)の出来事とは、人間を神の働きから引き離す「罪」からから解放されて、神と人間を隔てている深い溝が埋まり、神と共なる存在として私たちが生きて行くことを可能とする出来事にほかなりません。

・その意味で、私たちは、「〈いのち〉を生かす神の働き」が実現してゆく出来事の只中に置かれた人間として、どんなに状況が厳しくとも、「〈いのち〉を生かす神の働き」に参与する以外にはありえないのです。

・今年のクリスマスに当たって、そのことを共に確認するものでありたいと願います。