なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(161)復刻版

 2012年ももうすぐ終わりがやってきます。今日は「黙想と祈りの夕べ通信(161)」復刻版を掲載し

ます。ルターの『日々のみことば』よりは割愛します。後残り少ない年末の数日を大切にお過ごしくださ

い。      


        黙想と祈りの夕べ通信(161[-4]2002.10.27発行)復刻版

 先程朗読しました今日の聖書箇所、詩編38篇とマタイ5章38-48節から、最近私自身が考えさせられて

います「ことば」に関わる問題を、感想として短くお話しします。38篇の詩人は「疫病」に苦しむ者のよ

うです(12節)。そしてこの詩人を周囲の者は避けて、「わたしに災いを望む者は/欺こう、破滅させよ

う、と決めて/一日中それを口にしています」(13節)。というのです。そのために詩人は耳も口も閉ざ

さざるを得ないと(14節、15節)。この詩人にとって、災いを望む者の言葉はこの詩人を殺すものです。

それとは対照的に、マタイ5章43節以下のイエスの言葉は、人を勇気づけ生かす言葉です。「父(神)は

悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」(44節)。説教

の言葉を聞く者をイエスの自由と愛(解放)へと招く契機となり得るために、後何回説教の機会が与えら

れているか分かりませんが、自分なりに「ことば」の問題を究めていきたいと思っています。

 上記の私の発言に続いて、一人の方の発言がありました。先日すすきが片側に茂った道を歩いた。その

すすきのことで以前読んだ岡部伊都子さんのエッセーを思い出した。それは、岡部さんとすすきの穂を抱

えた姪御さんがタクシーに乗り込む時、「あ、気を付けて、穂が折れちゃう。可哀想」と言ったとき、す

かさずタクシーの運転手さんが「切ってきたことはどうなうのかねー」と言ったというのである。秋にな

ると、そのことを思い出す。私も草花を育てるが、その矛盾をいつも感じている。人間関係においても同

じことが起こり得るように思われる。繰り返し注意していかないと、その矛盾に気づかずに、おかしなこ

とをしてしまうのではなかろうか。

 また一人の方が、自分が以前出席していた教会の方から誘われて、身体障がい者の施設に行ったことを

報告してくれました。朝早く新宿に集まり、千葉の茂原にある施設を訪問しました。午前と午後障がい者

の方の車椅子を押して一時間ほど散歩をした。その日は良い天気で暑かった。自分にとっては良い経験を

与えられた一日だった。今拉致のことが問題になっているが、被害者の5人が一時帰国して、20数年ぶり

に再開した家族の方々、そして友人の方々はどんなにうれしかったことかと思う。

 一人の方は、自分の仕事のことで感じたことを発言されました。自分の勤務する病院は結核患者の方が

多い。病院の中で飲酒すると、退院しなければならないという決まりがある。最近あったことだが、ある

患者さんが期待していた退院予定日に退院できず、入院が延びてしまい、そのために落胆してしまったの

だろう。飲酒をしてしまった。そのことが起きた時、ある看護士が、あの患者さんはとんでもない人だか

ら、きっと飲酒してしまうと思った、という発言をした。私は、先入観で決めつけて人を見るのはどうか

と疑問を感じた。自分としては、飲酒をしてしまう患者の気持ち、その弱さを受けとめて関わっていきた

いと考えている。

 そしてもう一人の方から、以下のような発言がありました。その人が出会った、教会に行くのがつらい

と語る二人の子どもと生活している他教会の女性に、そんなにつらいなら、しばらく教会に行かなくても

いいのでは、家族そのものが或る意味で教会ではないかと、自分は言った。自分は神と電波が似ていると

思っている。電波の存在証明は大変難しい。神の存在証明も同じではないか。けれども、我々は毎日テレ

ビを観て楽しんでいる。それは電波の働きがあってのことである。教会でも癒しや喜びに与って、神を感

じるのではないだろうか。