「心の悪を洗い去って」エレミヤ書4:5-22、 2015年6月28日(日)船越教会礼拝説教
・今日のエレミヤ書4章5節から22節は、新共同訳聖書では「北からの敵」と表題がつけられています4章5節
から31節までの一部になります。この4章5節から31節までは、読んでみますとお分かりのように、戦争が一
貫した主題になっています。例えば6節後半から7節にかけてこう語られています。「わたしは北から災いを
/大いなる破壊をもたらす。/獅子はその茂みを後にして上り/諸国の民を滅ぼす者は出陣した。/あなた
の国を荒廃させるため/彼は自分の国を出た。/あなたの町々は滅ぼされ、住む者はいなくなる」。ここに
は明らかに戦争が主題になっています。
・ところでこのエレミヤの預言は、エレミヤがどのような時に語られたものなのでしょうか。実際に戦争が
起きていたのでしょうか。このエレミヤの預言はエレミヤの初期の預言で、ヨシヤ王の治世の初め頃のもの
だと考えられています。そうしますと、その時代は具体的な歴史的背景としては戦争の時代ではありません
でした。むしろマナセの治世以来の平穏無事な時代であったと言えます。「北からの敵」も具体的にどこを
指すのか明確ではありません。騎馬民族のスクテヤ人の侵入というようにも考えられますが、スクテヤ人の
脅威はエレミヤやユダの人々に不安をもたらしましたが、実際には来ませんでした。
・ですから、<初期エレミヤは、若さのゆえであろう。「北からの災い」の予感を強く不安と恐怖を抱いて
預言をした>のではないかと思われます。<しかし。これが実現しなかったので、エレミヤの預言者として
の立場は、大きな抵抗と批判にさらされることになった」(木田献一、「新共同訳注解」406頁)と言われ
ています。
・またこの預言ははじめから公に広く不特定多数の人々に語ったエレミヤの預言というのではなく、「むし
ろ自分のために書き残したもの、或は少数の人に見せるためのパンフレットの如きものが、彼の預言の第一
集に入れられたものと考えられる」(関根、注解書52頁)と言われています。いずれにしても、このエレミヤ
の預言には、エレミヤが何を問題にしていたのかがよく示されています。
・8節をみますと、エレミヤは北からの災いを「主の激しい怒り」として捉えているのであります。8節に
は、「それゆえに、粗布をまとい/嘆き、泣き叫べ。/主の激しい怒りは我々を去らない」とあります。9
節以下では、その災いが臨む時に、「王も高官も勇気を失い/祭司は心挫け、預言者はひる」む(9節)と
言われているのであります。つまり、エレミヤは、神の激しい怒りとして「北からの敵」がやってきて、イ
スラエルの民の指導者たちを狼狽させしまうというのです。そして10節では、その指導者たちは、「言うで
あろう」と言われていて、「ああ、主なる神よ、/まことに、あなたはこの民とエルサレムを/欺かれまし
た。/『あなたたちに平和が訪れる』と約束されたのに/剣が喉もとに突き付けられています」と言われて
いるのです。イスラエルの民の指導者たちは、神が自分たちに平和を約束されたのに、「剣が喉に突きつけ
られています」と、北からの災いの厳しさを嘆いているというのです。イスラエルの民の指導者たちは、こ
の北からの災いの到来を、神の約束違反としてとらえていて、決して自らの過ちを問題にしていません。こ
のイスラエルの民の指導者たちについての預言は、勿論エレミヤのものですから、そのようにエレミヤが理
解していたということであります。
・このようなエレミヤが見抜いたイスラエルの民の指導者のあり様というものは、私たちの中にもしばしば
見出される姿ではないでしょうか。自分を棚上げして物事を考えるという、私たちの中によく見受けられる
人間のあり様です。当事者であることを棚上げして、傍観者のように自分を事柄の外に置いて、そこからえ
らそうに批評するのです。
・イスラエルの民の指導者は、もしイスラエルの民に北からの災いが及ぶならば、その災い、つまりその戦
争をどのように避けて、イスラエルの民が神の契約の民としてその歩みを貫いていけるために、自分たちが
何をすべきかを、祈り、考え、決断して、選び取っていくことではないでしょか。ただ自分たちの権益のみ
を守るとするならば、そのような人は指導者としては失格者でしょう。
・このエレミヤの初期の預言は、まだヨシヤ王の宗教改革の兆しも見えなかった頃のものではないかと思わ
れます。エレミヤはヨシヤ王の宗教改革には期待をかけたと思われますので、ヨシヤ王の宗教改革の時期の
預言ならば、「王も高官も勇気を失い」(9節)という言葉は語らなかったに違いないからです。
・12節の最後のところに、「今やわたしは彼らに裁きを下す」とあります。エレミヤは、先の「神の激しい
怒り」と共に、ここでは「神の裁き」について記しているのです。そしてこの神の怒りとして、また神の裁
きとしての北からの災いがイスラエルの民に及ぶのは、「『・・・ユダがわたしに背いたからだ』と主は言
われる」(17節)と、エレミヤは言うのです。「あなたの道、あなたの仕業が/これらのことをもたらす。
/これはあなたの犯した悪であり/まことに苦く、そして心臓にまで達する」(18節)と。
・そのようなイスラエルの民の背きの情況に、自らもイスラエルの民の一員としてコミットしている預言者
エレミヤは、そのことを人ごとには思えませんでした。「わたしのはらわたよ、わたしのはらわたよ。/わ
たしはもだえる。/心臓の壁よ、わたしの心臓は呻く。/わたしは黙していられない。/わたしの魂は、角
笛の響き、鬨の声を聞く。(戦争のですね。)/『破壊に次ぐ破壊』と人々は叫ぶ。/大地はすべて荒らし
尽くされる。/瞬く間にわたしの天幕が/一瞬のうちに、その幕が荒らし尽くされる。/いつまで、わたし
は旗を見/角笛の響きを聞かねばならないのか」(19-21節)。
・北からの災いが起こり、その戦争によってイスラエルが荒廃していくことを、エレミヤは傍観者として観
察していることはできません。その中でもだえ苦しみ、「わたしの心臓は呻く」とまで言っているのです。
この預言者エレミヤの姿は、神の言葉を預言する者であると共に、その神の言葉が語られるイスラエルの民
の一員として、神の預言の言葉を一身に受けてもいるのです。この姿勢、立ち位置は、ナザレのイエスのそ
れと通底しているものではないでしょうか。
・そして今日の読んでいただいたエレミヤの預言の最後に、イスラエルの民の無知を糾弾しているのです。
「まことに、わたしの民は無知だ。/わたしを知ろうとせず/愚かな子らで、分別がない。/悪を行うこと
にさとく/善を行うことを知らない」(22節)と。
・エレミヤはこの預言で何を問題にしているかと言えば、「神の激しい怒り」「神の裁き」そして「ユダの
民の背信、背き」「無知、無分別」なのです。「悪を行うことにさとく/善を行うことを知らない」と。そ
の上に立って、14節ですが、エレミヤはこう予言しているのです。「エルサレムよ/あなたの心の悪を洗い
去って救われよ。/いつまで、あなたはその胸に/よこしまな思いを宿しているのか」と。
・昨日教区総会があり、ヘイトスピーチを批判する声明、いわゆる「戦争法案」を廃案にする声明、そして
「辺野古基地建設反対声明」が議案として総会にかけられました。すべて可決したのですが、その議論の中
で、私たちの中でよく聞く考え方ですが、私たちキリスト者の社会認識、世界認識の問題が明確な形ででま
した。例えば辺野古の議案の議論の中で、この議案に批判的な方の発言として、「基地を無くせという理想
論を言っても現実に対応できない。安全保障の問題をどう考えるのか」という趣旨の発言がありました。あ
るいは、この三つの議案は、「教会に来ている信徒の中にはいろいろな考え方をする人がいるのだから、個
人や有志でやるのはいいが、教会や神奈川教区の総会で議決すべき議題ではない」という発言です。
・この二つの発言の根底には、信仰者は教会と社会に生きているが、教会と社会は同じではないのだから、
特に政治的社会的な問題は教会では扱ってはならないという考え方です。極端に言えば、社会の問題、特に
国家間の安全保障の問題は、日米安保を含めて現実的に考えるべきだという考え方です。
・もしこの考え方が正しいのなら、今日のエレミヤの預言はどうなるのでしょうか。エレミヤは、ユダの人
々やエルサレムが北からの災いを受けるに違いないという直観から、今日の預言を語ったのだと思います。
北からの災いとは北からの国による侵略です。政治的な侵略を踏まえてエレミヤは信仰の言葉としての預言
を語っているのです。しかし、エレミヤは国家間の紛争を政治的に解決する道を政治学者を装って語ってい
るわけではあしません。エレミヤが問題にしたのは、北イスラエルにしろ、南ユダにしろ、イスラエルの民
が神ヤハウエとの間に締結した契約にふさわしく、政治的な思惑が行きかう現実社会の中で、信仰の民とし
てどう生きていくのかということなのです。「エルサレムよ/あなたの心の悪を洗い去って救われよ。/い
つまで、あなたはその胸に/よこしまな思いを宿しているのか」と。
・今私たちが安保法制廃案を訴え、辺野古の基地建設反対を叫び、ヘイトスピーチを批判する声明を出すの
は、ただ単なる政治的な発言としてではありません。主イエスを通して私たちの下にもたらされた神の国の
福音にふさわしく、この時代と社会の中で教会が立っていこうとするからです。それらはすべて、主イエス
の福音の証言としての行為です。それが結果的に政治的な発言・行動につながるに過ぎません。それを教会
は政治的な発言・行動にはかかわるべきではないというのは、教会がこの世において光でも塩でもなく、結
果的に教会は宗教集団としてその社会を補完することになるでしょう。国家が侵略戦争をしても、教会はそ
れに反対することなく、戦時下の日本基督教団のように、国家に迎合し、戦争協力をするようになるのです。
・その意味で、「エルサレムよ/あなたの心の悪を洗い去って救われよ。/いつまで、あなたはその胸に/
よこしまな思いを宿しているのか」というエレミヤの言葉を、今日の情況をよく踏まえて、私たちに語りか
けられた言葉として聞きたいと思います。