なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

船越通信(218)

 私の『食材としての説教~聖書と現実の往還から~』が7月末には発行されることになりました。下記に

関田先生の次のような言葉が引用されています。「70年代以降の歴史を吟味する時、教会と神学の新しい

動向が示すものが、何を意味しているかが明らかになるであろう。人類的危機が迫っている中で、無時間

的、教条的、中立神学的がどのような運命を辿るかは、もはや自明のことである。この世界の構造悪の中

で苦しむ民衆と共にある十字架を負いたもうキリストに従うことなくして神学も教会もあり得ない。そう

いう『現場』から生まれ出るものであればこそ、約束に生きる力あるものとなるであろう」。私も1969年

に牧師として教会で働くようになった人間です。この関田先生の問題提起を自らのものとして生きてきた

者の一人です。そのような者として語ってきた私の説教が、その問題意識にどう応えられているかは、読

んでくださる方の判断にゆだねる以外にはありませんが、自分としては精一杯取り組んできたつもりです。

どうぞ、ぜひ読んでいただければ幸いに思います。


             船越通信癸横隠検 。横娃隠鞠7月5日   
 

・6月28日は礼拝後しばらく懇談して散会しました。しかしその後N・Jさん、Tさん、Sさんの3人が庭の

手入れをしてくださり、午後5時頃までその作業をされました。特に庭の梅ノ木の剪定をしてくださり、梅

の木がすっきりしました。梅ノ木は剪定するところを間違いますと、翌年梅の実がならないことになりま

すので、TさんとN・J子さんのお二人で慎重に剪定されました。来年が楽しみです。教会の裏の崖部分も最

近伸びた木や草が刈られて、植えた木の周りに白い石灰が蒔かれています。N・Jさんがしていないという

ことですので、最近礼拝にはしばらく見えていませんが、N・Hさんが来て手入れをしてくれているようで

す。有難いことです。お蔭様で船越教会の庭も崖もきれいに整備されています。

・さてこの日は夜に聖書研究会がありました。午後5時に教会から帰ったTさんも出席し、H・Tさん、H・Sさ

んと私の4人でヤコブの手紙1章9-18節を扱いました。この部分は、「貧しい者と富んでいる者」(9-11節)

と「試練と誘惑」(12-18節)という二つのテーマについて記されているところです。貧しさについてヤコ

ブの手紙の著者は、<本来貧しいこと自体は不幸なことであり、好ましくない状態である。しかし、そのこ

とのゆえに、かえって困難を通して精神的に《高められる》機会ともなるのである。貧しいことによって信

仰的な高貴さに達することができた場合、これを《誇りに思》うべきだ>と主張しています。貧しいことが

人間にとって不幸かどうかは断定できませんが、ヤコブの手紙の著者のように、貧しさの効用のようなこと

を語るのは、私自身にはなじめません。先日寿地区センターの講演会で講師をお願いした野本三吉さんは、

貧しさについてこのようなことを語っていました。<「貧困」と「貧乏」の違いについて、貧乏は経済的な

貧しさ。そしてもう一つは人間関係の貧しさ、つまり「孤立化」です。貧困は「貧乏」+「孤立」の両面を

含んでいます。貧乏であっても、人間関係が豊かであれば人は生きて行けるし、希望ももてるし、働く意欲

もわいてくるのです>と。「貧乏であっても、人間関係が豊かであれば生きて行けるし、希望ももてるし、

働く意欲もわいてくのです」ということは本当にその通りだと思います。私はかつての戦争で日本が敗戦し

たとき、満4歳でした。戦後の貧しかった時代について、幼いなりに少しは覚えていますが、みんな貧しか

ったけれども元気だったという印象が強くあります。活気があったように感じています。また、みんなが貧

しかったので、お互いの助け合いも今では考えられないくらい、豊かだったように思います。その幼い時の

記憶からしても、野本三吉さんが言う「貧乏であっても、人間関係が豊かであれば生きて行けるし、希望も

もてるし、働く意欲もわいてくのです」ということは真実だと思います。資本制社会は景気の向上を宿命と

しているところがどこかにあるようですが、原発などには頼らない低成長でも公平な分配によって経済的格

差の少ない社会を、金融資本の横暴に歯止めをかけながらつくりあげていかないと、将来の不安はぬぐえな

いのではないでしょうか。その点では現安倍政権は全く逆の方向に邁進していく、大変危険な政権と言える

でしょう。

・30日(火)は農伝に行き説教学の授業を担当しました。説教学は前期だけですので、後一回でこの授業

は終わります。私は関田先生の説教学をベースにして、特にD.リッチェルの『説教の神学』という、これも

関田先生が訳された説教学の本を学生と共に読み合せています。学生の中にはこのリッチュルの本の読解自

身が難しい人もいるようで、ある部分を一人一人にまとめて発表してもらっているのですが、中にはまとめ

きれなかったという人もいます。しかし、前回の時はそうでしたが、今回その人なりに課題の部分をまとめ

て発表してくました。うれしかったです。なお、先日沖縄教区の総会を傍聴した方から、沖縄教区議長の竹

花和成さんの議長総括を送ってもらい、読みました。B5に細かい字で書いたのが20頁に及ぶ長文の「議長中

間報告」です。その中にリッチェルの『説教の神学』の「訳者あとがき」(関田先生)からの引用がありま

した。「70年代以降の歴史を吟味する時、教会と神学の新しい動向が示すものが、何を意味しているかが明

らかになるであろう。人類的危機が迫っている中で、無時間的、教条的、中立神学的がどのような運命を辿

るかは、もはや自明のことである。この世界の構造悪の中で苦しむ民衆と共にある十字架を負いたもうキリ

ストに従うことなくして神学も教会もあり得ない。そういう『現場』から生まれ出るものであればこそ、約

束に生きる力あるものとなるであろう」です。

・7月2日(木)には18:30より紅葉坂教会で私の支援会の世話人会・事務局会がありました。この日は「北

村慈郎牧師の免職撤回を求め、ひらかれた合同教会をつくる宣言」の集計状況(7月1日現在で賛同者約650名)

を報告し、今後の運動について話し合いました。「宣言」については、もう一度支援会会員等へ、8月末の

第2期締め切りまでに賛同者署名の拡散をお願いすることにしました。その際この「求めつくる会」に名称

を変えてからの最初の集会を10月31日(土)午後1-4時紅葉坂教会にて行うことにし、その案内も同封する

ようしにします。その発送は7月16日に船越教会で行うことにしました。その他に新教コイノーニア『聖餐・

戒規免職・対話~日本基督教団への問いかけ~』(仮称)の寄稿者の状況を報告し、今後の予定を確認しまし

た。原稿の締め切りは7月末ですが、現在すでに12人の方から原稿が送られてきています。その原稿を読ん

でいますが、なかなか面白いものができそうな予感を持っています。もう一つ裁判資料をまとめた冊子の作

成を計画しています。この冊子についてはT・N弘さんがまとめて下さっています。ほぼ出来上がっています

ので、データでメンバーに流してくれるようにお願いしました。T・Nさんのまとめたものの中にはない、意

見書や証拠説明書もその冊子の中に入れたいと思っています。今後の予定としては、私の説教集『食材とし

ての説教~聖書と現実の往還から~』が7月末に発行されますが、そのあとがきに「宣言」本文が載ってい

ます。9月半ばごろ賛同者名を入れた「宣言」と10月31日の集会案内を「キリスト新聞」と「クリスチャン

新聞」に一面意見広告として掲載し、その後「新教コイノーニア」の発行、裁判資料の発行という形で進め

ていくことを確認しました。