なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(340)復刻版

 黙想と祈りの夕べ通信(340)復刻版を掲載します。2006年4月のものです。

  
       黙想と祈りの夕べ通信(340[-27]2006・4.2発行)復刻版


 ここ数年、年度の終わりのこの時期に、私はF伝道所にI牧師をお訪ねしています。紅葉坂教会か

らの献金を届けがてら、I先生とお話をしてきます。F伝道所は、設立のときに紅葉坂教会が関係教

会でした。教団では、伝道所ないしは教会を設立することができるのは、教区か各個教会です。で

すから、F伝道所の設立のときに紅葉坂教会が関係教会になり、教団に申請して教団の伝道所とし

てF伝道所は出発したのです。私が1995年4月に紅葉坂教会の牧師として着任してから、その年の夏

に「障がい者と教会の集い」に参加しました。その頃F伝道所と紅葉坂教会との関係は疎遠になっ

ていました。その年の数年前にあった紅葉坂教会の100周年に出た紅葉坂教会100年史に、F伝道所

のことが全く記述されていなかったのです。そのことにI先生は紅葉坂教会が関係教会としてどれ

だけ自覚的であるのかという点に疑問を持っていたようです。そこで私は既に召されているOさん

に働いていただき、F伝道所にも伺ってもらい、新たにF伝道所に対し紅葉坂教会が関係教会である

ことを役員会で確認しました。以来途絶えていたF伝道所への献金も再開し、F伝道所の献堂記念

礼拝(9月第二週の日曜日)には、誰か役員の方に礼拝に出席してもらい、その時年間の献金の半

分をF伝道所に届けてもらっています。ぜひF伝道所を覚えてそれぞれの祈りに加えてください。

 上記の私の発言に続いて、一人の方が発言しました。今日の聖書箇所ヨハネによる福音書の箇所

(12:20-26)の訳が分からないので、黙想の時ずーと考えていました。24節「はっきり言ってお

く。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結

ぶ」。25節「自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って

永遠の命に至る」。このところの「自分の命を憎む」が、どういう意味なのか分からない。「自分

の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至

る」。どうして? という思いである。自分は植物が好きで、一粒の麦は大地からの栄養、水を取

って、死んでいない。「死んでいる」という表現がよく分からない。死んでいる種は一粒のまま残

るのではないか。「憎む」ということも分からない。「この杯を取り除いて下さい」と祈ったイエ

スは、命を憎んだのか。矛盾を感じる。命を憎むということは、命を惜しまずに闘って、命をすり

減らして平和のために生きているということか。自分のために抱え込んでいたのでは、豊かになら

ない。命を惜しまずに生きた人は人を励ます。イエスの障害もそうだったのではないか。自分の命

を愛しながら、惜しまずに生きていきたい。

 また別の方からの発言がありました。月曜日に靖国神社遊就館を見学した。その歴史観が余り

にもナショナリズムに偏っているので驚いた。日本は侵略者ではなく、被害者である。「わたした

ちは忘れない」というタイトルの映画では、何を忘れないのかと言えば、自分たちの先人が日本の

ために戦ったことを忘れないというのである。僕らは被害にあったアジア人のことを考え、日本が

侵略したことを忘れてならないと思うが、倒錯した歴史観に基づいた展示もされている。残念な感

じがした。後半は疲れて展示を見るのも、はしょってしまった。韓国の大統領が遊就館を見たいと

言っているようだ。大砲、ゼロ戦、人間魚雷なども展示していて、外国人には気分が悪いと思う。

歴史観が非常に逆だということで、驚いて帰って来た。