なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(339)復刻版

 黙想と祈りの夕べ通信(339)復刻版を掲載します。2006年3月のものです。

 
          黙想と祈りの夕べ通信(339[-26]2006・3.26発行)復刻版


 水曜日の黙想と祈りの夕べは、私と一人の方と二人だけでした。分かち合いではその方の近況をお聞き

し、共に祈って集いを終えました。雨が降っていましたので、特に静かな時をもつことができました。そ

こで今回の通信には、25日にCさんが園長をしています霞台保育園の卒園式に招かれて行って来ましたの

で、その時の感想を書かせてもらいたいと思います。

 私がCさんに頼まれましたのは、卒園式の開会祈祷です。短い言葉を述べ祈るというのが、私の役割で

した。昨年も同じように頼まれました、その時は短い詩を朗読して祈りました。今年もそのようにと思

い、準備して臨みました。私はまず15名の卒園する子どもたちに向かって、「おめでとう」と言いまし
 
た。子どもたちはこの人は誰だろうという視線をしていて、緊張した顔でした。私は続けて、イエスさま

の言葉「命は食べ物よりも大切である」(マタイ6:25)という言葉を紹介し、命とは目や耳や口などのみ

んなのからだでもあるということを話し、以下の詩を朗読し、祈りました。


「ほんとうの意味」マティ・ステパスク、廣瀬裕子訳

 目はものを見るためにある。

 だけど、とてもうれしいとき

 とてもかなしいとき

 泣くためにもある。

 耳は聞くためにある。

 だけど、こころでだって

 聞くことはできる。
 
 鼻はおいしい食べもののかおりを

 かぐことができる。

 風や草や

 ちょっとがんばれば

 チョウチョウのかおりだってかげる。

 手は感じるためにある。

 だきしめたり、そっとふれたり。

 口と舌は味をしるためにある。

 言葉をささやくためにもある。

 たとえば、「とてもすき」とか

 「神さま、ありがとう」とか

 そんなふうにね。


 私は「命は食べ物よりも大切である」というイエスの言葉を、子どもたちにも保護者の方たちにも伝え

たいと思いました。「食べ物」のところへ、子どもへの大人の期待や願いを入れ替えたり、社会や国が期

待する人間像を入れ替えたりしてみると、そのような外からの規範によって現在の子どもたちの命が十分

に開花できずに、萎縮しているのではないか思えてくるのです。自分の命としてのからだの肢体である

目、耳、鼻、手、口と舌を存分に働かせて、外界と交流し、自分の命の開花によって、その人その人らし

い輝きがもたらされるように思います。保育園の子どもたちには、その子その子のありのままの輝きが感

じられました。このまま大人になるまで育ったら、「命は食べ物よりも大切である」という世界が現前す

るのではないだろうかと、心わくわくしながら自分の想像を楽しみました。なぜ私が卒園式に出ていて、

そのように感じられるのか。それは保育園の職員の方々の姿勢からではないかと思いました。それぞれの

子どもの個性を大切にして、子どもたち一人一人を受け止めて、子どもの自由を生かそうとしているよう

に感じられました。そのような子どもと接する職員の姿勢に、私は共感を覚えるのです。小学校に行って

から、この子どもたちはどうなっていくのか。どうかこのままのびのびと育っていってほしいと、心から

思いました。