なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(3)

 1999年10月から2010年9月末まで11年間紅葉坂教会時代に続けました「黙想と祈りの夕べ通信をこのブログに再録します。再録の意図は、2011年7月15日のこのブログに、「黙想と祈りの夕べ通信(1)」を掲載した時に書きましたので、そこを参照ください。
 
  黙想と祈りの夕べ
   (通信№ 2  1999・10・10発行)
 
 3日の日曜日に、はじめての「黙想と祈りの夕べ」が開かれました。私は自分一人でもと思っていましたが、私の他に9人の諸兄姉が集って下さいました。手探り状態での出発でしたが、何とか最初の会を全うすることができて、ほっとしています。当日用意したプログラムは下記の通りです。
 
 ① 招きの言葉
 ② 沈黙
 ③ 讃美 21-214
 ④ 聖書と「日毎の糧」から
 ⑤ 沈黙
 ⑥ 讃美 21-12
 ⑦ 分かち合い
 ⑧ 執り成しの祈り
 ⑨ 聖なるかな 21-85
 ⑩ 主の祈り
 ⑪ 祝福 21-93-7-5
 ⑫ 讃美 21-89
 
 けれども、私もはじめてであわてていたのか、すっかり③の讃美を忘れて、飛ばしてしまいました。④と⑤のところは、聖書か「日毎の糧」の言葉を聞いて沈黙(黙想)を繰り返し、4、5回続けました。
 ⑦の分かち合いは、私の経験をお話しました。名古屋時代の中一と、小3の二人の子どもをもつ女性から最近もらった電話でうれしかったことです。彼女は、私が名古屋にいる頃は人との関係が重荷になり、どちらかというと、自分の世界に沈潜する方でした。しかし、この頃は自分の周りの一人一人がいとおしく感じられ、他者に対する自分の責任を思い、何ができるかということを考えられるようになった、というのです。私は、そのことをお話して、ひとりの人にず-と伴い、その人の成熟を導く大いなる命の存在を信じざるを得ないことを、お話しました。会が終わってからの自己紹介では、それぞれ分かち合いにふさわしいお話が参加者からでました。信仰には、「私の」信仰だけではなく「私たち」という側面が前々からあるように思い、このような会があれば、出たいと思ってきた。神との対話の時間を持ちたかった。プロテスタントではロゴスが中心で、それには多少違和感をもっているので、静かな黙想の時を通して感じられる信仰を大切にしたい。日曜礼拝に出られない人のために夕拝があればとおもっていた。この会がそういう役割ももてたらよいと思う。ハンディをもった子どもをもつ母親のためのボランティアの会に加わっているが、そういう母親が周りの人によって支えられたらと願っている等々。
 ⑧の執り成しの祈りでは、参加者が自分の周りの人々のことを思いながら、祈りました。祈りは必ず行動を生み出す力だと思います。他者のために祈ることは、他者のためにこの自分が何ができるのかが問われることになります。そういう問いをもって生活していると、いつかその問いに応える機会や課題が与えられるものです。
 そして⑩の主の祈りを共に祈って、第一回の「黙想と祈りの夕べ」を終えました。最後の⑫の讃美はテゼ共同体の歌です。はじめてでしたので、うまく音程がとれませんでしたが、そのうち慣れるでしょう。ちなみに詞は以下のとおりです。
 「共にいてください、主イエスよ。
  闇の中の光 主イエスよ。」
 「黙想と祈りの夕べ」には一本のロ-ソクが灯されています。その光を囲んで黙想と祈りの時を持ちます。誰でも来たい時に、また来れる時に参加くだされば、幸いです。