なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(2)

黙想と祈りの夕べ(2)
                    (通信№1 1999・10・3発行)
 
 「神は人間を愛し、
  世界を愛したもう。
  理想的な人間ではなく、
  ありのままの人間を
  理想的な世界ではなく
  現実の世界を、
  愛したもうのである。」
         (ボンへッファ-)
 このような神の愛を信じ、幼な子のようにその愛の中に生きることことこそ、私たちの癒しであり解放であると、私は思います。私はそのことを聖書から学んできましたし、特にボンヘッファ-の著作から刺激を受け、指針を与えられてきました。そこで、この「黙想と祈りの夕べ」において、私たちの黙想への導きとして、聖書とボンヘッファ-の言葉を用いさせていただくことにしました。邦訳されているボンヘッファ-の「日毎の糧」に類する書物は二冊あります。一つは『主のよき力に守られて』(ボンヘッファ-1日1章、村椿嘉信訳)であり、もう一つは『信じつつ 祈りつつ』(ボンヘッファ-短章366日、小池創造訳)です。私は前著にその出版の時から親しんでいますが、この「黙想と祈りの夕べ」では、後著を用いたいと思います。聖書の言葉は『日々の聖句』(ロ-ズンゲン)によりたいと思います。しばらくは(数年?)これでいきたいと思います。毎回この通信の裏に『信じつつ、祈りつつ』とロ-ズンゲンの『日々の聖句』から、その日の日曜日からの一週間の部分を載せます。それを、「黙想と祈りの夕べ」において用いますが、各自でその日から始まる一週間の間に自由に用いていただければと思います。
 「黙想と祈り」が目指すものは、「神が何を約束され、また何を成就されるかを知るために、繰り返し繰り返し、本当に長い時間をかけ、しかも極めて静かに、イエスの生涯・言葉・行為・苦難、そして死を思いつつ、その中に深く沈潜して行」(ボンヘッファ-)くことです。そのことを通して、私たちは仲介者であるイエスによって神の豊かな命、甦りの命に連なって生きることができます。それは毎日ご飯を食べなければ、私たちの肉体が維持されないように、私たちが人間として生きるために欠くことのできない日常的な営みです。毎週日曜日、礼拝に集い、教会生活を日常的に欠かさずに続けてゆくのも、ある人々からは惰性で無意味な行為に思われても、私たちにとっては生きていくかぎり毎日ご飯をいただくのと同じことなのです。そのような「繰り返し」が、私たちを生かす力になるように思います。
 ブラザ-・ロジェによって始められたフランスのテゼ共同体には、世界各国から多くの青年がやってくるそうです。テゼには、この混迷する時代の中に置かれた青年たちを引きつける「何か」があるからでしょう。それは、私には「祈ること、働くこと、生きること」の一体化ではないかと思われます。私たちの多くは、わざわざテゼやカルカッタのマザ-テレサの家に出かけて行くことはできませんし、その必要もありません。けれども、私は、私たちの身近なところにも「祈ること、働くこと、生きること」の一体化への道が与えられているのではないかと思うのです。この「黙想と祈りの夕べ」において、そのような道を探求していゆきたいと思います。このM教会が置かれています場所は、大都市横浜です。しかも都市化が最も進行している地域です。そこは砂漠化した「荒地」かも知れません。けれども、そのような「荒地」にもきっとオアシスがあるに違いないと信じるからです。
 (このブログでは、通信の本体だけを載せます。ローズンゲンの日々の聖句等は割愛します。)