なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(28)

 昨日は少し暑さが戻り、長袖より半そでで過ごしました。船越教会にいますと、虫の鳴き声がよく聞こえます。崖の中腹に教会がありますので、2面は崖で雑木が茂っています。ただ最近は、庭の手入をしてくれる人がいて、雑木も切られてきれいになっていますが、草が茂っていますので、虫たちが集まってくるのでしょう。季節は確実に秋に向かっています。
先日連れ合いと宮ケ瀬ダムに行ってきました。今年夏、子ども連れの家族が鶴巻に泊ってミニキャンプのようなことをしましたが、来年もというので、宮ケ瀬ダムの周りが子どもたちを遊ばせる場所としてふさわしいか調べる目的もありました。たまたま行った日がダムの観光放流がある日で、ダムの放流を見ることができました。宮ケ瀬湖はダムによる人造湖で、箱根の芦ノ湖と同じ貯水量とのことでした。1992年頃から3年間で完成したダムのようで、黒部ダム程ではありませんが、なかなかのものです。ダムの上から晴れた日はラントマークタワーが見えるとアナウスがありましたが、その日は晴天でしたので、確かにぼーとですが、ランドマークタワーが見えました。
さて、今日は「黙想と祈りの夕べ通信」(28)(復刻版?)を掲載します。
 
 黙想と祈りの夕べ
   (通信 28 2000 49発行)
 
 「黙想と祈りの夕べ」ではその日のロ-ズンゲンの主日聖書から旧約は詩編を、新約は福音書使徒書のどちらかを朗読しています。前回の新約の箇所は、ヨハネ福音書12章20-26節でした。この中には、「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」というイエスの言葉があります。実はちょうど数日前に、4月23日のイ-スタ-礼拝で洗礼を受ける姉妹とその準備の時を持ちました。その時、その姉妹から洗礼を受ける決心の契機になったのは、捜真女学校のH先生がお亡くなりになったことだったが、自分の決心を聞いた友人の何人かから、「一粒の麦は、…」の聖句のようねと言われたというのです。姉妹から、「先生、この言葉、聖書のどこに書いてあるの」と尋ねられ、ヨハネ福音書のこの箇所を示したのでした。何か不思議な感じがしました。改めて、いろいろなことを考えながら、この「一粒の麦は、…」というイエスの言葉を思いめぐらすことができました。
 イエスのこの言葉は、イエスの受難と十字架という文脈の中で語られています。「人の子が栄光を受ける時が来た。はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちてしななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くのも実を結ぶ。自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる」と。レントも来週の日曜日は棕櫚の主日で、その週が受難週です。そして23日の日曜日がイ-スタ-になります。イエスの十字架と復活のおとずれを静かに思いめぐらしたいと願います。 「分かち合いと祈り」では、一人の若い姉妹が、デザインの学校に行くようになって、やっていけるかどうか不安ですが、何をしたらよいのか、神様導いて下さいと祈りました。また、一人の姉妹からは、この「黙想と祈りの夕べ」で共に祈り合っている若い兄弟が、街を歩いていたら、元気よくてきぱきと働いていたので、大変うれしかったという報告がありました。私たち一人一人はそれぞれ苦しみや痛みを持ちながら生きていますが、それらの苦しみや痛みと向かい合いながら、前向きに生き抜く力が与えられますようにと祈るものです。
 最近私は、妻から薦められて二冊の本を読みました。穂積純の『甦える魂~性暴力の後遺症を生きぬいて~』と『解き放たれる魂~子供時代の呪縛からの解放~』(共に高文研出版)です。この本の解説も書評もできません。大変重い問題ですので、関心のある方は自分で読んでください。ただ後の方の本の最後のところに書かれていることだけを紹介したいと思います。「自分を回復しようとする時、それは自分という一人の人間を救うことだ。それは小さなことでは決してない。そして自分が変われば、受け渡されてきた憎しみの鎖を断ち切ることができる。子どもがいる人は、子どもから始まる世代たちに、憎しみでなく、より健全な世界観を渡すことができる。自分が変われば、周囲の人も変わる。そういう人間が増えてゆくことが、いつか社会全体を変えてゆくにちがいない」。そして著者は、1922年に被差別部落の人々が出した水平社宣言の「我々が穢多であることを誇りうる時がきた」に触れて、次のように言うのです。「私たちが苦しみを生き抜いて来た人間であることを誇りにする時がきた」と。