なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

マルコ福音書による説教(17)

マルコ福音書による説教(17) マルコによる福音書4:35-41、
        
  エスの弟子たちは、イエスに従ってゆく者たちです。3章13節以下の「12弟子の選び」の記事によれば、イエスは「彼ら(弟子たち)を自分のそばに置くためであり、さらに宣教につかわし、また悪霊を追い出す権威を持たせるためであった」(3:14)と言われています。イエスとともにおり、イエスのわざを弟子たちも担う、そういう存在としてイエスの弟子たちは選ばれたと、マルコは語っています。
  エスの弟子たちがイエスの弟子であるということは、彼ら自身の資質や選択に先立って、イエス自身の呼び出しによることを、1章の16節以下のペテロ、アンデレ、ヤコブヨハネの4人の召命や、2章14節のレビの召命等の記事によって、福音書記者マルコは示しています。このイエスと弟子たちとの関係は、私には、私達すべての人間が既に持たせられているイエスとの関係を示しているように思われます。
  エスを信じるとはどのようなことなのでしょうか。福音書の中では、「弟子の無理解(不信仰)」によって、逆説的にイエスとの関わりとしての信仰とは何かが、明らかにされているように思われます。弟子たちの存在は、先ず、①イエスとの関わりが一時的なものではなく、生と死の一切における関わりであることが示されています。そのようなところで、②弟子たちがいつもイエスに対しては従順な者としてではなく、不従順な者としてしか立ち得ない者であるということが、「弟子たちの無理解」において明らかにされています。パリサイ人や律法学者に代表される人達が、イエスを全く受け入れないで、自分たちの既に持っている思想や秩序を固持することによってイエスに反抗するとすれば、弟子たちは、イエスの呼び掛けに従って行く者であるから、彼らにとっては、常に彼ら自身の既に備わっている了解可能性を越えているが故に、イエスに従うことは、驚きをもって、その都度、主よ、「信じます。不信仰な私をお助けください」と、イエスに叫ばざるを得ないのであります。
  それ故、パリサイ人や律法学者に代表される人たち(イエスの敵対者)と弟子たちとの間には、人間的に見て基本的な違いはありません。すなわち、人は誰であろうと、イエスの前に立つとき、常に新たなる悔い改めを必要としない者はいないからです。では、弟子たちをイエスが選んだということは、何を意味するのでしょうか。福音書に記されているイエスの生涯において、群衆に教えを語り、神の国の福音を宣教するイエス、病人を癒し、悪霊につかれた者から悪霊を追放する奇跡行為者イエス、受難と復活の中で、イエスと弟子たちとの間に起こっている事柄が、その一つの重要な要素を構成していることは疑い得ない事実であります。
  弟子たちは、イエスのそばに常に伴う者たちであり、イエスの宣教を反復する者たちとして選ばれたことを確認しました。では、どのようにして今日のテキストに描かれているような、イエスご自身を本当には理解できていない者たちが、~キリスト者もまたその点では同じである~ どのようにしてイエスのわざを反復するのでしょうか。「神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」と宣べ伝えたイエスに習って、十字架と復活の福音を宣べ伝えることなのか。確かにその通りであろう。しかし、イエスご自身の言葉には人を悔い改めへと促す力があったと思われます。弟子たちの言葉はどうでしょうか。復活後の弟子たちの言葉は、そのような力があったのではなかろうか。宗教改革者たちの言葉はどうか。確かにイエスに対して無理解は者である弟子たちが、イエスと全く同じではないであろうが、イエスのわざを反復する者として、全く空虚な形骸化した言葉ではない、そこに人を悔い改めへと導く言葉を語り得たという事実があり、今日もそのような可能性が全くないとは言えないのであります。そのようなことが、あのイエスに対しては無理解者であるにすぎない、人間的に見れば、常にそういう存在である者が、イエスの弟子として立つということが、一体どうして起こりうるのであろうか。
  この箇所で、弟子たちの不信仰が示されているのは、38節の言葉である。ガリラヤ糊をイエスと弟子たちとが船で渡ろうとした時、途中で突風が起こり、波が船の中に打ち込むほどに激しく揺れ動いて、どうなるかと、弟子たちはあわてふためいたというのである。その時イエスは、その船の中にいたのであるが、「舳の方で、まくらして、眠っておられた」と言われる。弟子たちは、イエスを起こして「先生わたしたちが溺れ死んでも、おかまいにならないのですか」と言ったというのである。「溺れ死んで」と訳されている原語は「滅ぶ」という意味の言葉です。この部分の、田川氏の注解書の訳は「先生、あなたは私達が滅んでもかまわないのですか」となっています。
  弟子たちがここで直面している現実は、一つの比喩として受け取ることが出来る。彼らは海上にある船の中で、突風を受けて困惑しているのである。そして彼らは自らの滅び(死)を恐れているのである。こういう状況は、私達が日々に直面している現実ではないであろうか。E.シュワイツア- は、「弟子たちのなじるような問いかけは、詩篇における神の沈黙に絶望する祈祷者の困窮に似たものを感じさせる」と言う。病苦の中で、死との直面において、民族的な苦難の中で、宣教の困難さの中で、愛そうとして愛し得ない苦しみの中で、「私達が滅んでもかまわないのですか」と、私達は叫ぶのである。私達が今あるこの困窮に対して、「主よ、あなたは何もして下さらないのですか」と叫ぶのである。「外側から来て助ける神」。中心は自分にある。自分ではどうすることもできなくなるとき、イエスを呼び求めるのである。
  しかし、そのように叫ぶ弟子たちや私達は、イエスがその同じ船の中にいたもうことを、今私達が味わっている困窮を私達と同じように受けておられるイエスがいたもうということを、本当に知っているのであろうか。もし弟子たちが溺れ死ぬとすれば、イエスの同じように溺れ死ぬのである。私達は同じように一人の人として人間性をとりたもうイエスは、人間が経験するあらゆる苦悩、困窮に対して、共に苦しむ者として、私達の生とともにある方なのである。「わが神、わが神どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と、叫びながら息を引き取ったイエスは、その十字架において、人間が経験する悲惨としての死を、最も鋭く、最も深い形で死んだのである。そのようにして生と死の中心に立っておられる。
  「先生、あなたはわたしたちが滅んでもかまわないのですか」と叫ぶ弟子たちは、もし彼らが滅ぶならば、イエスご自身も滅ぶのだということに気づいていなにかのように振る舞っている。彼らの狼狽は、自分たちとイエスとの間にある隔たりがあるという認識に基づいている。困窮に直面している彼らは、その彼らの外側にいるイエスに向かって叫んでいるのである。
  パウロは、「生きるにしても死ぬにしても、わたしたちは主のものなのである」(ローマ14:8)と語っているが、ここでパウロは、人間の生死の一切が、イエスによって担われていることを明言しているのである。弟子たちが経験したどんな困窮も、又私達が経験し、また経験するであろうどんな困窮においても、イエスがそこにいたもうて私達と同じようにそれらを味わい給うのである。イエスがそこに居給わないような場に、人間が立つなどということはないのである。
  狼狽した弟子たちに対して、イエスは「何故、そんなにこわがるのか」と言われたとある。このところを、ある人は、「どうして君たちはそんなに臆病なのか」と訳しています。嵐によって波が押し入る船の中で、誰が恐れない者があろうか。弟子たちは仲間と一緒に船に乗っていたが、その弟子たちがそれぞれ同僚としての他者が、この困窮においては、何の助けにもならないことをしっていたのである。そこでは、それぞれが孤独であり、自分一人で何とかしなければならないとあせればあせるほど、どうしようもならない現実の前に、打ちのめさざるを得なかったのである。自分たちがどうなるか。「滅んで」しまうのではないか。暗い死が彼らをおおったのである。「舳の方で、枕して、眠っておられた」イエスを見て、彼らは自分たちだけ見捨てられてしまうのではないか、という不安に襲われたのだろうか。そのような弟子たちの態度は、明らかに、今この厳しい現実をイエスとともにとことん行けるまで行くのだというのではない。自分で、自分の生を配慮しようとする思いに捕らえられているのだ。そこから恐怖に脅え、臆病な弟子たちのあわれな姿が生まれてきたのではないであろうか。
  エスは、『どうして信仰がないのか』『まだ信仰がないのか』と、続けて語られたのである。信仰とは信頼であり、イエスへ全てを委ねて生きかつ死ぬことである。生と死の中心がイエスであることを認めることである。それが服従としての信頼である。私達は、弟子たちと同様に、私達の生が「滅び」と「死」の陰にあることを知るとき、(それは、何か特別な時ではなく、常にそのような危機のただ中に私たちが立っているのだが)、狼狽してしまう者たちであろう。しかし、どんな困窮の中にも、イエスは私達とともにいたもうのである。受肉のイエスは十字架のイエスである。十字架のイエスは、人間が真実に人間たろうとするときに、直面するであろう「滅びと死」の力との対決を、とことんまでなされた方であることによって、復活の主であり給う方なのである。
  弟子たちは、確かに不信仰であった。しかし彼らは、イエスと共にあり、イエスの荷を負う者たちである。彼らはイエスと一つ船に乗って海を渡ってゆくのである。それは、私達に置き換えて言えば、今自分の置かれているこの現実を、イエスとともに担うことにある。より正確に言えば、すでに私達の現実はイエスによって担われているのである。それ故私達はどんな情況の中にあっても、そこでイエスを見い出すことが許されている。十字架のイエスを見い出す時、そのイエスが、嵐に向かって、『静まれ、黙れ』と命じられる復活の主であることにも出会うであろう。その時、私達は弟子たちとともに、「恐れおののいて、『いったいこの方は誰だろう。風も海も従わせるとは』と言わざるを得ないであろう。そこで、すべてを了解し、十字架と復活の主であるイエスにすべてを委ねるように導かれてゆくであろう。困窮の中でそこから自由となるのは、このようなイエスのみを見つめて生きるときである。
  その時、『先生、あなたは私達が滅んでもかまわないのですか』という叫びが、どんなに愚かなものであったかに気づくであろう。イエスを信じるとは、あらゆる情況において、つまり、私達の生と死の一切において、私達がイエスのものであることに対する信頼である。十字架と復活の主であるイエスが、私達の生と死の中心であるように考え振る舞うことである。あらゆる人間の生と死の中心に立ち給うイエスが、死と滅びに打ち勝っておられるからである。