なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

マルコ福音書による説教(27)

      マルコ福音書による説教(27) マルコ福音書7:24-30

・今日のマルコによる福音書7:24ff.に登場してくる女は、 イエスによって受け入れられています。7:29に、イエスは女に次のように言われた、とあります。私たちが持っている聖書協会訳では、「それほど言うなら、よろしい。家に帰りなさい。悪霊はあなたの娘からもう出てしまった」となっていますが、原文を直訳してみますと、「この言葉の故に、行け、悪霊はあなたの娘から出てしまった」となります。イエスは女に「この言葉の故に、行け ……」と言われたというのです。

・ひとりの人間の語る言葉が、イエスによって受け入れられ、肯定されているのです。今日のテキストの前の箇所を振り返ってみますと、7:5では、ファリサイ人と律法学者たちとが イエスに向かって次のように言ったとあります。「なぜ、あなたの弟子たちは、昔の言い伝えに従って歩まず、汚れた手で食事をするのですか」。この彼らの言葉はイエスを非難し、断罪しようとしています。自分達に先祖から大切に伝えられて来た言い伝えを無視し、それを破る者として、イエスは彼らから排除されなければならない存在なのです。そのような彼らに向かって、イエスは、「あなたがたは、神のいましめをさしおいて、人間の言い伝えに固執している」(7:8、13)と言って、真正 面から対決しています。ここには、イエスを拒絶し、自分達の中から排除しようとする人間と、その人間が発する言葉があり、一方イエスの方でも、彼らと彼らの言葉とを拒絶しているのであります。両者は全く逆の方向を向いているわけです。イエスは彼らの頑なさをその温かな、そして鋭い眼差しで、見抜いています。しかし、彼らはイエスを全く見ようとしませんし、イエスが邪魔なのです。

・次に弟子達ですが、弟子達は7:17で、「すべて外から人の中に入って、人を汚しうるものはない。かえって、人の中から出てくるものが、人を汚すのである」というイエスの譬えについて尋ねました。弟子達はイエスの譬えの真意がわからなかったのでしょう。その時、弟子達にイエスは、「あなたがたも、そんなに鈍いのか。……」と言って、弟子達の無理解を嘆いているのです。彼らは、ファリサイ人や律法学者のように、真っ向からイエスに敵対する者ではありません。イエスに従って行こうとしているのです。しかし弟子達には、イエスのなすこと、語ることが、驚きと恐れであり、彼らの了解できる範囲を越えているので、しばしば佇んでしまうのです。そんな時、イエスから、お前達はまだわからないのか、といわれてしまいます。弟子達は、その無理解さのゆえに、イエスから嘆かれる存在です。ここに集う私たちの多くは、自分の中に弟子的な面をかかえている者たちではないでしょうか。

・しかし、この女はイエスに対して、人間が取りうる最も正常な関係に立っているのです。敵対者としてではなく、また、無理解者としてでもなく、切実に真剣にイエスに向かった求める者として立っているのです。この女がイエスに求める者として、どれだけ真実で真剣であったかは、テキストから知ることができます。

 (以下テキストを順を追って女とイエスの出会いを振り返る。)

・この苦悩を背負った女が、イエスの出会いを通して与えられた解放は、信仰の出来事であって、娘から汚れた霊を追放されるのは、イエスご自身です。イエスを抜きにして、この治癒だけを取り出すことはできません。伊藤之雄氏は、「キリストはウソの愛情によってつぶされて失敗してゆく人間とは違って、愛が深過ぎることによってつぶされた人間であります。『私が神である。苦しむ人よ、私のもとにきなさい』という不思議な一つの人格」であると言っています。人間の苦悩を解放するのはそのような「不思議な一つの人格」をもったイエスなのです。

・私たちが、これまで、この女がイエスの前に求める者として立っているということを考えてきました。そして、ファリサイ人や律法学者たちではなく、また弟子たちのようにでもなく、この女の姿勢こそがイエスに向かう正常な人間の態度であることを教えられたのです。そこで、もう少しこの女の姿勢について考えてみたいと思います。先程ファリサイ人、律法学者の態度や弟子の態度と比べて見ましたが、ここでもそこから考えてみたいと思います。ファリサイ人、律法学者たちは、神の前に自分の義を立てようとした人たちです。律法を熱心に守り、功績を積上げて、正しい人間として誇りうる自分になることを、人生の目標と考えていたのです。弟子たちはどうかといいますと、イエスの後に従って、一緒に働けば、イエスが栄光を受ける時、自分たちも栄光を受けられるのではないかと考えていたようです。マルコ10:35以下で、ゼベダイの子のヤコブとヨ ハネが、そのようにイエスに願っているところがあります。ところがこの女はどうでしょう。女は母親として汚れた霊につかれた娘と共に苦難と闘うことを強いられてしまっているのです。もちろん、この女は娘を捨てて逃げ出すことも出来たでしょうが、そうはしておりません。与えられた不幸を、受け入れ難いけれども、受け入れ、苦闘しているのです。〈娘から悪霊を追い出してください〉と、イエスの足下にひれ伏して願ったこの女は、苦しいから仕方なく、その苦しみから逃げたいためにイエスのところに来たのではありません。イエスに対する執拗な女の態度は、そんな安易なものではないことを示しています。女が汚れた霊につかれた娘をもって、投げ出さないで生きて来たということの中には、はじめから神の導きがあったのでしょう。このような女の立場にある人間は、そこで真実に生きようとするならば、己を捨てて生きる以外にないからです。この女がどこまで己を捨てることができたかどうかは分かりません。少なくともこの女が、自分の置かれた現実の中でごまかして安易な道を選ぶのではなく、真実の道を苦しみながら歩もうとする限り、己を捨てざるを得ないからです。そしてたとえ一歩でも、そのような道に進むことができるのは、人間の力によるのではなく、神の導きによるのだと思います。

・そしてイエスが、そのように生きているこの女に見たものは、彼女の信仰ではなかったでしょうか。イエスは8:34で、「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従って来なさい」と語っています。この言葉については、いずれ考えますが、イエスが女に見たのは、この言葉に対応するものではなかったか、と私には思えるのであります。女は今自分の苦しみから早く楽になって、この世の多くの人と同じように安楽な生活をしたいという願いをもって、イエスに求めたのではありません。人間の苦しみという壁の彼方から、その壁を突き破って、苦しむ者に向かって語るイエスのコトバが欲しかったのです。パンくずのひとかけらでもよいから下さい、という女の言葉は、それを表しているのではないでしょうか。

・私は、イエスの奇跡物語を正しく読むためには、十字架と復活の光の中で読まなければならないと思っています。「不思議な一つの人格」をもったキリストをどこかにやってしまって、一般的に奇跡を考えるならば、イエスの奇跡は理解できません。女の娘から悪霊が追放されたということを、女とイエスとの出会いから、それだけを切り離して、私たちの常識や理論で、また私たちの願望によって受けとめようとしてもだめです。そういう方向からイエスに接近しても何も得る事は出来ないと思います。女はイエスに出会って、「その言葉のゆえに、行け …」と言われました。女は真剣に求めて、イエスによって受け入れられたのです。イエスによって受け入れられる求めは、一つであります。女は苦難と死を負って歩んでいたのでありますが、その道を放棄して、楽な生活へと逃亡することを願ったのではありません。苦難と死を負って生きることが出来るため、「涙をぬぐってくれる方」を真剣に求めたのです。女はイエスに出会って、その方を発見したのではないでしょうか。

イスラエルが荒野の放浪を続けて、エジプトの肉鍋を想い起こして、これほどつらい生活をするなら、奴隷でもよいからエジプトに帰りたいと、モ-セに言ったと言われます。約束の地カナンはそのようなイスラエルの民には見えなかったのでしょう。女は、神によって与えられたにちがいない、己を捨てて負わなければならない自分の十字架を背負って生きてきて、イエスに出会い、約束の地を発見したのです。荒野の旅を続け、約束の地カナンを仰ぎ見つつ、生きる道です。この女とイエスとの出会いの記事は、私たちにイエスとの出会いがどこでおこるかということを示しています。自分に与えられている十字架を背負って生きることであります。そこで私たちはイエスと出会うことが出来るでしょう。他者の理解を越えている孤独は、誰もがもっているものです。病者の孤独、健康であるが他者の苦難をどうすることもできない者のもつ孤独(中風の者をイエスのところに連れて来た友人)、ニコデモのような孤独。有効さということで測るこの世とは全く違うものがそこにあります。人生の意味はそれを発見するということではないでしょうか。