なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(58、復刻版)

 昨日は午後鶴巻から船越に移動し、夜聖書研究会がありました。聖書研究会では本田哲郎さんの『聖書を発見する』を読んでいますが、昨夜は第4章「怒りと共感」の後半を扱いました。「福音的な行動に駆り立てるものはただひとつ、他者の痛みへの共感と共有です」と本田さんは確信を持って記しています。ご自身の釜が崎での体験によって裏打ちされた言葉ではないかと思います。「痛みの共感のバロメーターは怒りである」。伝統的な教会の教えは、「怒ってはならない」という怒りへの抑制ではなかったか。もちろん怒るべき対象を間違ってはならない。当然怒るべきは、「社会的な因習や制度、法律や社会常識といったものによって、解放を妨げられているとき、つまり選択肢をまったく奪われてしまっているというときに、自己責任や自助努力の欠如をあげつらわれるなら、当然怒りがわいてくる。当然その怒りは大事にしなければならない」と。イエスは怒りを露わにされた方であり、イエスの平和は切り裂く分裂を介してもたらされる平和であり、単なる対立を恐れる現状維持ではない。だからイエスの平和は自分が殺される十字架によってもたらされる平和であると。

 私を入れて6人での聖書研究でしたが、本田さんの明快で説得力のある聖書解釈に、参加者はそうだと思う反面今までの長い信仰生活での自分の信仰理解との間にあるギャップに戸惑っている様子でした。

 さて今日は、「黙想と祈りの夕べ通信」(58、復刻版)を掲載します。 

       黙想と祈りの夕べ (通信 58[-6] 2000・11・5発行)

 10月29日の日曜日には、礼拝の後に恒例の教会バザ-が行なわれました。バザ-の間も小雨が降っていましたが、夕方には本格的な雨になりました。バザ-はここ数年「交わり」の場として位置づけられています。特に教会関係者の中では、さまざまな作業を通して、それまで余り話したことがなかった人とも関わりをもつ機会でもあります。そのようにして、思わぬ形でお互いを知ることができるのも、バザ-の大切な要素でしょう。目標額が設定され、その達成がどうしても必要だというバザ-は、しんどいと思われますが、現在の私たちの教会のバザ-は、それほどのプレッシャ-はありません。比較的のんびり、楽しみながら開いています。けれども、どうしても下働きや、見えないところで必要とされる作業は、一部の人に集中してしまいます。いたし方ない面もありますが、できるだけそうならないようにしたいと思います。 さて、バザ-で中高生が担当した喫茶部に私もコ-ヒ-を飲みに入りました。ちょうどその時に、テンポの良い音楽に合わせて、Hくんが踊っていました。彼の踊りを小中高生が囲んで見ていました。Hくんが奇抜な振り付けで踊ると、ドット笑いが起きました。その様子をコ-ヒ-を飲みながら見ていて、何とも温かな気持ちになりました。遊びの自由と豊かさとでも言いましょうか。いい光景でした。そんな空気を一杯吸って、子どもたちが大きくなっていって欲しいと思いました。

 「分かち合い」では、上記の感想と心にかかる諸兄姉について、共に祈っていきたいと申し上げました。

 また、一人の姉妹は、「もみじの会」のテ-プ朗読で、最近はじめてテ-プを送った三重県の方のことを話しました。この方は、以前に点字で「信徒の友」のテ-プ送付を当「もみじの会」に依頼したが、送られて来ないので、盲伝のA先生から最近当教会に連絡があり、テ-プと姉妹が十数年前に覚えた点字で私信を添えて送ったそうである。すると、数日前にその三重の方から電話があり、お礼と彼女の点字にあった二三の間違いを、これからも同じ間違いをするといけないからと、さわやかな声で訂正してくれたという。彼女はその方の注意を素直に受けることができた。今日はまた、いつも電話をかけてくるFさんから電話があった。いつものようにFさんはかつてこの教会で自分が受けた痛みを繰り返し語った。姉妹は、私自身はあなたの痛みを消すことはできないので、毎日のようにあなたから電話であなたの痛みを聞くことはつらいことよ、と言った。すると、Fさんは「ごめん」と、はじめてあやまった。三重の方も自分の点字の間違いをさわやかに指摘してくれたが、自分もFさんとの関係で、素直に自分の気持ちを言葉で伝えられた。言葉を出さずに、心の中にわだかまりを残すことはよくない。このことを、これからも心にかけて歩みたいと思うと。

 たしかにお互いに、自分の気持ちを言葉化するのは、なかなか難しいことではあるが、大切なことだと思う。私たちの文化は、むしろ言葉化する前に、相手の気持ちを察することを大切にしてきたところがあるように思われる。しかし、察しは、お互いによく知合った者同志の間で、はじめて成立するものであろう。現在のように、体験の多様化と匿名の相手との関わりが日常的な状態においては、ますますそれぞれの気持ちを言葉化することが求められるのではないだろうか。素直に伝え、素直に聞く者でありたい。