なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

番外船越通信(1)

 以下の文章は、最近船越教会で発行しました教会機関誌「船越の丘から」(船越教会のある場所

は、道路から20数段外階段を上がった所にあります)の創刊号に載せた私の文章です。私のブロ

グを開いて下さる方の中には、船越教会関係者ばかりではないと思いますので、ここに載せさせて

もらいました。お読みいただければ幸いです。


      「船越教会って、どんな教会か?」         牧師 北村慈郎


 みなさん、こんにちは! 私は、現在日本基督教団船越教会の牧師をしている者です。今回船越

教会では、教会の機関誌として、この「船越の丘から」を発行することにしました。この「船越の

丘から」は、教会に来ている方だけではなく、広くどなたにも読んでいただくことを目標にしてい

ます。そこで、船越教会の牧師として、この「船越の丘から」の創刊号で、〈船越教会ってどんな

教会なのか〉を簡単に紹介させていただきたいと思います。


 ‥租?なキリスト教信仰は、どちらかと言いますと、信仰の世界と世俗社会を分けて考

  えるところがありますが、船越教会は、この社会の中で生きている私たちが、聖書の信仰から

  エネルギーを受けて、どのように生きるかを大切にして、日曜礼拝などの教会活動を行ってい

  ます。

 △修里海箸蓮∩ケ朸飢颪教会としてめざすべき指針として掲げて来ました、「平和宣言」によ

  く表わされています。現在この「平和宣言」は見直し中ですが、基本的な方向性の見直しでは

  なく、これが作られた時と現在では社会状況も教会も大分変化していますので、現在の状況に

  合わせた見直しを行っているところです。下記に船越教会の「平和宣言」を記します(日本文

  の下に英文もありますが、英文は省略します)。

 《私たちは戦争責任に基づき飢餓、地球破壊、差別、軍事力、核等のあらゆる抑圧から解放され

  自由、人権、世界平和の実現を求めつつ、戦う民衆として前進することを宣言します》

                     (1990年5月20日  船越教会員一同)
 
 上記宣言文は、英文と共に、現在では文字が色あせて分からなくなっていますが、船越教会の

  会堂の外壁に掲げられています。その表題には「横須賀平和センター宣言」となっています。

  船越教会は、歴史的には牧師の主導により、平和や人権問題と取り組む横須賀の市民運動との

  関わりが深くありました。「横須賀平和センター宣言」とあるのは、そのためです。しかし、

  現在はかつてほど横須賀の市民運動の方々との繋がりはありません。現在は、むしろこの「平

  和宣言」を教会に集うそれぞれが、自分の置かれた場と課題を負うところで、各自の実践の中

  で生かそうと努めています。その意味で、船越教会が存在する横須賀という場での活動は、船

  越教会の現在と今後の課題でもあります。

 ちケ朸飢颪蓮⊂綉のように、世界の平和と人権の確立を求める祈りと実践をめざすと共に、昔

  から言われてきた「老病死」や、現代の高度資本主義社会の中で資本や権力、既存の文化や常

  識による人間疎外を受けて、心身に苦しみや痛みを持つ方々に寄り添い、共に生きることをめ

  ざしていきたいと考えています。

 グ幣紊里海箸蓮∪蚕颪諒_蚕颪涼罎能个討るイエスの解放の物語がめざしていることでもあり

  ます。イエスは故郷ナザレの村にあったユダヤ教の会堂で、安息日に、イザヤ書の言葉を朗読

  して、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と言われました。

  そのイエスが朗読したというイザヤ書の言葉は、「主の霊がわたしの上におられる。/貧しい

  人に福音を告げ知らせるために、/主が油をわたしに注がれたからである。/主がわたしを遣

  わされたのは、/捕らわれている人を解放し、/目の見えない人に視力の回復を告げ、/圧迫

  されている人を自由にし、/主の恵みの年を告げるためである」(ルカによる福音書4書1 

  8,19節)です。

 以上のことは、船越教会がめざしてきている目印ですが、それが船越教会に集う者の中でどれだ

け深められてきたかは、人の前で誇れるわけではありません。毎日曜日の礼拝から力を受けて、そ

れぞれが祈りつつ、その人なりに日々を紡いでいます。そのゆるやかな礼拝を中心とした私たちの

交わりは、どなたにも開かれています。

 新しく参加して下さる方を、心から歓迎します。