なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

使徒言行録による説教(43)

      使徒言行録による説教(43)使徒言行録12:機檻隠雲
              
・ちょうど2007年の戦責告白40周年に当たって、私たちが提案して、神奈川教区常置委員会主催で「『戦責告白』40周年を覚える神奈川教区集会」が開かれました。その報告集がここにありますが、その中に、発言者の一人が、国家による戦時下のホ―リネス教会への弾圧について触れています。その部分を読んでみます。「1942年6月に、ホーリネス教会への一斉弾圧がありました。富田満(教団)統理が警視庁で語ったことが記録として残されていますが、それを見ますと、(ホ―リネスの牧師さんたちは)『比較的学的程度が低く且つ聖書神学的素養不十分の為、信仰と政治と国家というものを混同して考えた結果だ』というのです。また、当時の常議員会の記録を見ますと、富田満が統理辞任を申し出られたのですが、これはホーリネス教会の牧師たちに申し訳ないということではなくて、こうした不祥事を起こしたことで責任を覚えるということでの辞任申し出を常議員みんなで撤回させています。これが私たちの教会の現実だったのです。

・この集会では、鵠沼のホ―リネス教会の牧師でKさんに応答の発言をお願いしましたが、K牧師は、この戦時下のホ―リネス教会の弾圧について、弾圧そのものも勿論つらかったが、それ以上に同じ教団に属する仲間から見棄てられたことの方がもっとつらかったということを話されました。実は、この前まで私が牧師をしていた紅葉坂教会でも、戦時下に弾圧を受けて教会解散させられたホ―リネス教会の牧師が、紅葉坂教会の礼拝に来た時、おそらくホ―リネス教会の弾圧が紅葉坂教会に及ぶのを避けるためだったと思われますが、その方の礼拝出席を鄭重にお断りしたという事実がありました。

使徒言行録によりますと、最初期の教会でも、同じような問題に直面したこと記されています。ステファノの殉教とギリシャ語を話すユダヤキリスト者の迫害がそうです。また、今日の個所のゼベダイの子ヤコブの殉教もペトロの投獄もそうです。信仰の仲間への弾圧・迫害が起こったときに、弾圧・迫害された者とそうでない者とが、同じ信仰者としての連帯がどこまで可能なのか。またその連帯を可能とするものは何かということが問題になります。この問題をもう少し広げてみますと、その時代や社会に生きるキリスト者が、この世と妥協してその効き目を失った塩のようにではなく、「世の光・地の塩」として歩むことを可能とするものは何かということでもあります。

・権力による弾圧や迫害が、教会及び信徒・牧師の個々人に及んでくるとき、私たちは、それにどう対処していったらよいのでしょうか。今日の使徒言行録の記事も、そのことが問題になっています。

・1節に、「そのころ、ヘロデ王は教会のある人々に迫害の手を伸ばし、ヨハネの兄弟であるヤコブを剣で殺した」とあります。

・ここに記されていますヘロデ王は、イエス誕生の物語に出て来るヘロデ大王ではありません。ヘロデ・アグリッパ一世です。「彼はヘロデ大王の孫で、紀元41年以降はその祖父の領有した全域に王として君臨し、44年の死に及んだ。彼は幼少の頃から青年時代までローマで過ごしたが、贅沢な生活に溺れたため莫大な負債を負い、ついには債権者から逃れるため、ローマを去らねばならぬばかりでなく、一時は自殺すら思ったほどだという。紀元37年頃には半年の獄中生活すら経験したが、カリグラ帝(ローマ皇帝)の即位以後その知遇を得て、逐次その領土を拡大して行った」(高橋三郎『使徒行伝講義』p.181注1)と言われています。

ギリシャ語を話すユダヤ人信徒への迫害及びステファノの殉教の場合は、当時のユダヤ自治機関でありましたサンヒドリン(議会)が迫害の主体であったと思われます。それに続いて、今やヘロデ王が迫害に乗り出したと言うのです。しかも、ギリシャ語を話すユダヤ人信徒だけではく、へブル語を話すユダヤ人信徒にまで。

ヘロデ王が迫害に乗り出した理由は定かではありませんが、3節に「それがユダヤ人に喜ばれるのを見て」と記されていますので、自分に対するユダヤ人の歓心を買うためだったと思われます。そのようにして、エルサレム教会の指導者であったペトロをはじめとした使徒たちにまで迫害が及んでいきました。そして、最初にヤコブが犠牲者になりました。

ヘロデ王が最初にヤコブを殺した理由も定かではありませんが、福音書の記述からしますと、ヤコブが激しい性格の人だったからでしょうか。ルカ福音書9章51節以下によりますと、イエスの一行をサマリア人たちが受け入れようとしなかったので、ヤコブは「主よ、いかがでしょう。彼らを焼き払ってしまうように、天から火を呼び求めましょうか」と言ったとあります。イエスが、このヤコブとその兄弟ヨハネに「雷の子」という名前をつけたということも(マルコ3:17)、彼の激しい性格を表わしていると思われます。

・ヘロデは、ヤコブの殺害がユダヤ人の意にかなったのを見て、さらにペトロを捕まえて牢にぶち込んだと言うのです(3節、4節)。4節に「過越祭の後で民衆(ユダヤの民)の前に引き出すつもりであった」と記されていますから、ヘロデ王は、ここでもユダヤ人の歓心を買って、自分の権力基盤を強化しようとしたと思われます。

・今の私たちキリスト者の場合は、戦時下の教会の場合のように、またこの最初期の教会の場合のように、国家や権力者による迫害弾圧という形で、すべてのキリスト者の上にその圧力が加わっているわけではありません。けれども、教育現場での日の丸君が代問題で、特に公立学校のキリスト者教師の中には、この種の圧迫を今も受けている方々がいますし、今後さらなる日本の右傾化によって、かつての天皇制国家に近い形に戻ってしまうようになれば、そうならないように私たちが最大限の努力をしたとしても、すべてのキリスト者にこの種の圧迫が及ぶ時が来ないとも限りません。

・また、現代社会の物質文明と世俗主義文化の影響と格差社会の進行の中で、神の前に命を大切にして、互いにその存在と生活を大切にし合うという、キリスト者として自らの人間として有り様を貫こうとするときに、この社会には様々な障害があります。それは、国家や権力者の抑圧とは違いますが、同じような力として私たちの生きざまを否定する力として迫ってきていることも、また、私たちが見失ってはならない現実です。

・つまりこの世にある限り、「神の国」を希望して生きているキリスト者は異質な存在で、迫害弾圧に繋がる圧力を逃れることはできません。ヨハネによる福音書では、イエスとピラトの問答の中で、イエスが「わたしの国は、この世には属していない」と言ったと記されています(18:36)。この世に属していないイエスの国((神の国)に生きようとしてするキリスト者が、この世では異質な存在であり、躓きであり、それ故に「世の光、世の塩」であり得る存在なのではないでしょうか。そのような私たちにとって、今日の使徒言行録の後半部分の記事で語られていることは、注目に値するものではないかと思います。

・ペトロが牢にいれられてしまったとき、「(エルサレム)教会では彼のために熱心な祈りが神にささげられていた(田川訳:「神に対する祈りがずっと続けられていた」」(6節)と言われています。ここには、迫害を受け、自分たちの指導者である仲間のヤコブが殺され、ペトロが投獄されてしまった後に、エルサレム教会のキリスト者たちが投獄されたペトロのために祈り続けていたということが記されているのです。

・6節以下には、獄中にあったペテロに、突然留置場の中に光が差し込んできて、天使が現れ、寝ていたペトロを起こして、「すぐに立て」と言います。「すると彼の鎖が手から落ちた。天使は彼に対して言う、『自分の衣をまとい、私について来なさい』。そして出て、ついて行ったのだが、この天使のおかげで生じたことが事実なのかどうか自分ではわからなかった。幻を見ているように思えたのである。第一の衛所も、また第二の衛所も通り抜け、町へと通っている鉄の門のところに来た。この門が彼らのために自動的に開き、外に出ると、一つの路地に出た。そして直ちに天使は彼から離れた。そして、ぺテロは我にかえって、言った、『これは本当に、主が御使を遣わして、私をヘロデの手とユダヤ人の民のあらゆる思惑から救い出して下さったのだと思う』」(6-11節、田川訳による)と。

・このペテロの獄中からの解放の記事は、天使の存在など、神話的な色彩に富んでいますが、「本当に、主が、・・・私をヘロデの手とユダヤ人の民のあらゆる思惑から救い出して下さった」と言われていることに注目したいと思います。これはヘロデ王によって留置場に捕らえられていたペテロに、「主が、ヘロデの手とユダヤ人の民のあらゆる思惑から救い出して下さった」という、ペテロの告白です。ペテロは自分の上に神の直接的な介入を体験したのです。そのことが、結果的に、ペトロの留置場から解放に繋がったと、使徒言行録の著者ルカは書いています。

・けれども、ペトロが留置場に解放されないまま、イエスの国(神の国)のリアリティーを信じて、そこで弾圧による獄死に至ったとしても、ペトロの「主が、ヘロデの手とユダヤ人の民のあらゆる思惑から救い出して下さった」という信仰が貫かれたとすれば、この使徒言行録の記事の同じことではないでしょうか。

・今日の使徒言行録の記事には、現実のこの世の状況からの迫害・弾圧・圧迫と共に、(天来の光による)よる上からの神のよる介入の現実が私たちの生きている現実の生活にはあるということ。さらに言えば、同じ人間としてこの世を生き、この世に勝利したイエスが、私たちと共にこの世を歩んでいてくださるという信仰の現実が開かれているということではないでしょうか。

・もしそうであるとすれば、私たちは真剣に祈り、神を待ち望みつつ、なすべきことをなしていくことができる者へと変えられて行く希望を失わないで、与えられた命を、召される時まで、灯し続けることが許されるのではないでしょうか。