昨日の日曜日は、10月第1主日でしたので、船越教会では礼拝後昼食会と説教についての話し合いを
しました。それが終わってから役員会が、いつもあります。
説教の話し合いは、30分から40分程度ですが、10人弱の少人数ですので、比較的その人の正直な意見が
出てきます。昨日のテキストは使徒言行録12章1-11節でした。ヘロデ・アグリッパ一世によるゼベダイ
の子ヤコブの殺害とペテロの投獄、そして、ペテロの解放を祈るエルサレム教会の信徒たちの祈りと、天
使の導きによるペテロの獄中からの解放、ペテロが我に返って言った言葉「今、初めて本当のことが分か
った。主が天使を遣わして、ヘロデの手から、またユダヤの民(新共同訳では「民衆」)のあらゆるもく
ろみから、わたしを救い出してくださったのだ」に焦点をあてて、私は説教をしました。その説教は、12
日の土曜日にアップする予定です。私はヘロデやユダヤの民に代表されるこの世の力に束縛されている私
たちは、神話的な天使の導きに示されているような、この世の現実とは異なるもう一つの現実に生きてい
るのではないか。だから、この世の束縛の中にありながら、解放への道に招かれ歩んでいるのではない
か。それは、ペテロのように実際に獄からの解放に結びつかなくても、ヤコブのように殺害されても、同
じではないか、ということを話しました。その説教の中で、戦時下ホーリネス教団への弾圧と教職の投獄
と獄中死についても触れました。
説教の話し合いでは、その中に私学と公立高校の教師がいましたが、公立高校に勤めている人が、卒業
式の君が代斉唱に不起立で臨むか、起立するかを考えているところだ言われました。改めて説教で語って
いる私の言葉が、どれだけ自分の主体がかかったものであるかが問われているのだと思いました。最終的
には、それぞれが自分の行動に責任をもっていますので、その一人一人にゆだねるべき事柄です。お互い
に祈り合って、その時々にそれぞれが適切な道を選ぶことができるように。
黙想と祈りの夕べ通信(272[-11]2004・12.12発行)復刻版
教会の伝道について、ある意味で対照的な考えの現れを感じる出来事が二つ最近経験しました。ひとつ
は、前回の通信に書きました故人のお別れ会で、牧師たちの席に同席していた私の数年先輩に当たる某牧
師が、ちょうど私たちの席に挨拶に来ていました故人の次男のK君に対して話していたことです。私
はK君が中学生から高校生になる時期からずっと会っていませんでしたので、お互いの近況報告をしてい
ました。彼は逗子の近くの武山に住んでいますので、横浜に来ることがあったら、寄ってね、中華街でも
案内するからと、話していました。その私たちの話の中に某牧師は割り込んで来て、Kさんは教会に行っ
ているの? と聞きました。彼は行ってません、と答えました。すると、某牧師は信徒として教会を支え
ることは大切なことなのだから、教会に行かなければだめだよ、とK君に説教するように勧めていまし
た。同じ牧師でありながら、私はそういう勧め方はできませんので、よくやるなあーと思いながら、だま
って聞いていました。この某牧師の中ではある種の教会の正統性に対する頑固な程の確信があるのでしょ
う。教会はよいところで、間違いがない。来ない方がおかしい。そういう考え方だと思います。
もうひとつは、12月の神奈川教区の常置委員会での補教師試験受験志願者の面接でのことです。一人の
常置委員の教団の教勢の減退についてどう思うかという質問に対して、7人の面接者の中の二人が教会の
側が問題だという趣旨の発言をしました。教会が現在の青年をどれだけ理解しようとしているか。教会の
方が変わっていかなければ、青年が教会に来るのは難しいのではないか。礼拝も現在のままでよか考えな
ければならない。ひとりの方は、自分は社会で働いていたときに、日曜日の礼拝に何としてでも出席した
が、仕事に追われている社会人が日曜日に礼拝に出席することが、どんなに大変なことかを、教会はどれ
だけ理解しているのか等々。なかなかはっきりと意見を述べていました。質問した常置委員がどれだけそ
の二人の意見を受け止め得たかは分かりません。私は二つの出来事を通して、70年代に田川健三さんがキ
リスト教批判をしたときに、「観念と現実の逆転」という言い方をしたことを思い出しました。キリスト
教信仰の中には観念が現実に、現実が観念にという逆転があるのではないかというのです。上記の某牧師
や教区の一人の常置委員のようなキリスト教信仰の捉え方に触れますと、まさしく観念と現実との逆転に
囚われているように思えてなりません。しかし、イエス・キリストの福音には生身の人間の問題に肉薄す
る命が豊かにあるのではないでしょうか。
(以下 省略)