なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(273)復刻版

 9年前の「黙想と祈りの夕べ通信(273)」復刻版を掲載します。


     黙想と祈りの夕べ通信(273[-12]2004・12.19発行)復刻版


 昨日から今日にかけて教団の常議員会が開かれました。常議員としてはじめて出席しましたが、予想し

ていたように二分化が相当進んでおり、特に現執行部を支持しています福音主義教会連合に属する教職・

信徒の発言はひどいものでした。どうひどいかと言えば、相手の存在を認めて、互いに批判し合いながら

ひとつの真理を求める姿勢が極端に欠いているのです。体が硬いのです。たとえば、大きな不安や心配事

のある人は、どうしても体が硬くなってしまうところがあるように思います。自分を護るためにです。そ

して心も硬く閉じていくのではないでしょうか。上記の福音主義協会連合の方々には、同じような体と心

の硬さを感じました。彼らから内容的な発言はほとんど聞けませんでした。反対のための反対論だけのよ

うで、会議に参加している他の者にはその会議が大変不毛に感じられる程でした。それはキリスト教の歴

史を振り返れば、正統と異端の構図の上に立った自らの正統と認め、意見が違う者たちは異端として切り

捨てるあの姿勢です。東京神学大学の機動隊導入の背後にあった教授会の姿勢も同じものでした。自分を

振り返り、自分の中にも誤りがありはしないかという自己検証という作業を欠いて、ただ相手をやっつけ

ることのみを考えるのです。相手も同じ土俵にある仲間とは考えないのでしょう。そういう意味では、聞

きしに勝るという印象でしたが、なぜそれほどまでに彼らは硬くならなければならないのだろうかと、い

ろいろ考えているところです。一般論としても、体の硬さと心の硬さ(心が他者に向けて閉じられてい

る)とは相関関係にあるでしょう。でき得るならば、体も心も柔らかく、他者に対して開かれた存在であ

りたいと思います。常議員会の表の会議とは逆に夜の飲み会ではいろいろな人と出会えて、楽しい時を持

つことができました。思わぬオウレゼントをもらったような感じで、常議員会の不毛な議論によく耐えて

何年も出てくる方がおられるのも、そういう時があるからかも知れないと思いました。

 上記の私の発言に続いて、一人の方からの発言がありました。また辺野古のことになるが、今回辛い経

験をした。それは、座り込みの場所に酔ったオジイがお酒を持って話に来た。涙を拭くタオルを片手に、

国が決めた工事はどうせ阻止できないのに、何故座り込みをするのか? 大和の人間はかつて沖縄の人間

を三等国民としておいて、今何故座り込みに来たかと語る。また沖縄戦で両親を失っていること、その苦

しみ、漁師である彼はかつて珊瑚を取って売っていたので、取った珊瑚の赤ちゃんを採って植えつけた。

すると今は国が移植しているのに、当時は罪に問われたこと。名護には東と西に海があり、辺野古は東、

西海岸の漁師である彼は、辺野古の漁民が反対していないのがおかしいと繰り返し訴える。若い者の中に

入れられた私は、かつての戦争の苦しみは分からなくても、これから の子どもや孫に戦争をさせたくな

いから座ると答えると、少し分かってもらえた様子だった。さんざん話した後、寝てしまいタクシーを呼

んで帰っていった。

 先週辺野古の海での阻止行動で、事故が起きて心配していた。落下して怪我をしたのだ。その後二人の

漁師が二そう船をもってきて、阻止行動に加わってくれた。その中の一人が、海ンチュウは揺れている、

と言われた。今週阻止する側の船が急に多くなった。近くの漁師たちも船を出して阻止行動に加わってい

る。ボーリング調査のために組まれた四つのやぐらに16そうの船が出て、工事ができなかった。海ンチ

ュウがやらないで、何故あんたたちがあるんだ、と言ったおじさんもきっと喜んでいるのではないかと思

った。もしかしたら、そのおじさんも船を出して阻止行動に参加しているのかもしれない。最初は2そう

の船しかなかったのに、16そうの船で海上阻止をしているのは、海に基地を作れば、自然の生態系その

ものがすべて荒されるので、漁師さんたちも船を出してくれているのだろうなーと思った。どこまでやれ

るかわからないけれども、今までずっとやってきた人たちが力づけられていると思う。辺野古の海に杭を

打ち込むことは心臓に穴をあけるに等しいと言われている。もし阻止できれば、海ンチュウに海を返せ

る。すばらしいことだ。あのおじさんはどんな風に感じるだろうか。自分は感動している。