なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(573)復刻版

 黙想と祈りの夕べ通信(573)復刻版を掲載します。2010年9月のものです。

 昨日国会前の辺野古新基地建設反対の座り込みに行ってきました。毎週月曜日と木曜日の午後1時

から4時まで、参議院議員会館の前で行っています。いつも参加している方が、入院したり風邪をひ

いたりして来れないので、私が行くことにしましたが、風邪をひいておられる方も来て、3人で

2015年のはじめての座り込みをしました。まだ年始なので、国会前の道路を通る人も少なく、

警備する警察官ももとんどいなく、閑散としていました。ただ辺野古では大浦湾に仮設桟橋を設置

するという名目で、国側は沖縄の民意を無視して実質的な埋め立てを始めようとしていると言われ

ます。今年も厳しい状況の中での座り込みになりますが、私の時々ですが参加していきたいと思い

ます。


      黙想と祈りの夕べ通信(573)[Ⅺ-50]2010・9・19発行)復刻版


 14日に「沖縄から基地撤去を求め、教団合同のとらえなおしをすすめる連絡会」の世話人会が紅葉

坂教会で行われました。世話人の一人で岩国教会牧師Oさんが、岩国から参加しました。岩国では米軍

基地の瀬戸内海側を埋め立てて滑走路建設が行われました。その埋め立て用の土砂は岩国市にある愛

宕山を削りました。最初埋め立て完成後、愛宕山は住宅地にして一般に売り出す計画でしたが、不景

気で買う人がいないというので、米軍住宅として国に売るということになりました。最近は一部米軍

住宅、一部スポーツ施設とし、スポーツ施設は、米軍が使わない時には、一般にも開放するという案に

なっているようです。Oさんたちは、愛宕山が米軍関係に使われることに反対しています。そんな中、

愛宕山付近で最近米兵による自動車事故で、62歳の方が跳ねられて亡くなるという事件が起きました。

米兵は日本側の警察に捕まったそうですが、拘留は短く、米軍側に移され、日本の裁判所で裁くことは

できません。前々から繰り返されていますこの種の基地被害は、日本に米軍基地がある限り、無くなり

ません。Oさんの報告を聞きながら、改めて基地撤去を求めていかなければとの思いを強くさせられま

した。

 上記の私の発言に続いて、一人の方からの発言がありました。黙想と祈りの夕べが9月一杯で終了す

ることを知り、また北村先生が来年3月で辞めることは、実感として寂しい。もう少し早く出会って、

吸収したかった。私にとっては、キリスト教にはじめて接したのが紅葉坂教会であり、北村先生から

である。北村先生の話は、宗教としてのキリスト教というよりも、思想に近いように思える。印象深

かったのは、「右の頬を打たれたら、左の頬をむけよ」というイエスの言葉について、北村先生は、

これは「やるならやってみろ」という抵抗の意思表示であると言われた。自分は、この言葉は反撃の禁

止、逃げてはいけないということではないかと思う。人間は弱いから現実から逃げ出したくなる。学校

から、職場から。しかし、そんなにふんばっていきなければならないのかという思いもある。イエス

思想というよりは、福音書記者のものかもしれない。何れにしろ、北村先生の話は批判的検証による思

想に近いと思う。

 もう一人の方の発言がありました。今日は「ミツバチの羽音と地球の回転」という上関原発の映画を

観て、監督の話を聞いた。山口県祝島の海はひじきが沢山とれる。海岸から畑が広がっている。26年間

原発反対運動を続けていることに驚いた。自分は辺野古とは関わっているが、上関原発反対運動との関

わりはなかった。映画を観て、あんなに豊かな自然があるのに、原発工事を推進する人が工事を阻止す

る島の人に、一次産業には未来がない、と言っていたが、その呼びかけを聞いて、原発を推進しようと

している中国電力の驕りを感じた。辺野古でもそうだが、工事を推進する側は、夜討ち朝駆けを平気で

する。住民がやだと言っていることを、何十年も諦めずにやるのか。矛盾というか、その先に何がある

のか。保証金をすごい額積まれているが、住民は受け取らない。一部の人が受け取り、住民の側に亀裂

ができる。どこも同じである。日曜日には名護市議選が行われた。辺野古基地建設反対の市長の稲嶺さ

んと同じ反対派が多く当選した。名護の当選した市議を応援していた知人から電話があった。ダムの問

題も同じだが、国の力がどれだけ抑圧となっているだろうか。人間の幸せとは何かを考えさせられる。

 もう一人の方の発言もありました。土曜日の夜厚木基地の集会に参加し、物事の真実をみる目を持ち

たいと思った。
    

          「十字架の下に立つ」    9月19日


 頭を上げてまっすぐ立つ、これは霊的に成熟した人がこの世の悲惨さに直面する時示す態度です。日

常の様々な事実の中には、世の終わりが来たかのような陰鬱な考えや気分の源がいくらでも見つかりま

す。けれども、こうした否定的な傾きに打ち勝ち、この世で自信をもって立つことが出来ます。「天地

は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」(ルカ21:33)ということを常に思い起こしていれば、私

たちが立っている霊的な地盤を失うことは決してありません。

 イエスの母マリアのようになりましょう。マリアは愛する息子の死にもかかわらず、神は常に真実な

方であることを信じ、十字架の下に立つのでした。


                  (ヘンリ・J・M・ナウエン『今日のパン、明日の糧』より)