なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(574)復刻版

 黙想と祈りの夕べ通信(574)復刻版を掲載します。2010年9月のものです。

 2010年9月末をもって、11年間続けてきた黙想と祈りの夕べの集いは終えました。私はこの集いを

始める時に、10年間は行いたいと役員会で話しましたが、ちょうどその期間続けることができました。

2011年3月をもって、16年間の紅葉坂教会での働きを終えることを、5年前、一期4年の任期の4回

目の任期確認の時に、私の方から申し出て承認されていましたので、黙想と祈りの夕べの集いも11年間

という区切りの時に終えるようにしました。その後も、通信は私が退任するまで出したように思います。


      黙想と祈りの夕べ通信(574)[Ⅺ-51]2010・9・26発行)復刻版


 15年間鎌倉の介護ホームで隔月聖書研究会を担当して来ましたが、昨日9月21日をもって終えることに

しました。最後だということで、集会後に花束をいただき、帰ってきました。ノートを見ますと、聖書研

究でそのホームに伺ったのは80回になりました。紅葉坂教会の教会員の故Yさんがそのホームに入所して

いましたので、Yさんに頼まれて私が伺うようになりました。集会は、はじめに聖書に基づいたお話を私

がし、その後自由な懇談の時を1時間ほどもちます。懇談では近況報告やその時々の時事問題について話

し合いました。参加者はそのホームで生活していますお年寄りの方ですので、それぞれ長い人生経験を

もっておられます。私が何かを教えるというよりも、みなさんから多くのことを私が学んできました。既

に天上の人になっておられる方も多くいらっしゃいます。その中にKさんという方がいました。彼女は80

代半ばで召されましたが、クリスチャンではありません。しかし、私が行く集会には、大分体が弱ってき

ても、欠かさず出席してくれました。近況報告でマイクが回ってきますと、彼女は御自分のことは一切語

らず、イラクアフガニスタンで苦しむ人々のことを思い、平和の大切さを訴えました。Kさんだけでは

なく、沢山のことをこのホームのお年寄りの方々から学ぶことができました。

 上記の私の発言に続いて、一人の方からの発言がありました。先週15日(水)にNHKで放送された「歴

史秘話ヒストリア」の金城哲夫特集を見逃してしまった。この金城哲夫という方はウルトラマンの脚本家

円谷英二と共にウルトラマンシリーズを作った生みの親だ。彼は沖縄出身だが、この番組では彼の沖縄

の生い立ちや「ウルトラマン」創造と沖縄の生活体験などとの関わりなども取り上げていたようなので、

ぜひ見たかった。私は65年生まれで、ウルトラマンシリーズと仮面ライダーシリーズを見て育った、おそ

らく最初の世代かと思う。これらの作品は子供向けというよりは、むしろ大人に見てもらいたいものであ

る。様々なキャラクターが登場し、その違いによって助け合う人間ドラマという表のテーマが描かれると

共に、ショッカーなどの悪魔的な力に支配される人間の裏のテーマが描かれている。そこには、会社とい

う存在が、当の人間自身がそれと自覚しないうちに、人間を欲望の従属物に変えてしまうものであり、会

社的なものから解放されることが今を生きる我々には重要なことなのだ、というメッセージがあるように

思う。「怪人」から「人間」に戻るためには、というシリアスなメッセージを隠れテーマとして打ち出し

ていた「W」は稀有なライダーシリーズであり、すばらしい作品だと思う。ちなみに9月から始まった新シ

リーズもそうしたテーマ性を受け継いでいるようで楽しみだ。

 続いて、もう一人の方からの発言がありました。私は沖縄からの視点を見逃したくないと思い金城さん

のテレビを見た。彼の原点は沖縄である。私自身ウルトラマンを夢中で観る人ではないが、彼の原点に悲

しみ、苦しみ、差別を経験して、彼の理想を仮面ライダーにいかされたのだと思う。少し興味を持って見

てみようかなと思わされる番組だった。話は変わるが今日、私が係る障がい児在宅支援NPOを利用してい

る2歳6ヶ月の子が亡くなった。初めから自宅でのターミナルケアーであったので、いつ召されてもと覚悟

はしていた。しかし2週間前に13歳の子供が突然亡くなった。この子の葬儀に参列するとカトリック式の

葬儀であった。司式者のお話しの中にこの子の洗礼名がパウロであること。この子が生きていることがそ

のままで神さまを伝えていたと言われた。言葉の出ない中に返してくれる笑顔。受身で生き切るその姿こ

そ、神さまが与えられた命を生きる道を伝道していたのだろうと言っていた。私はこうした子供たちの生

き方を見ていると、洗礼を受けている、いないなんて問題は全然関係ない気がする。教会に属しているい

ないも関係なく、自分の命を精一杯生きているものは皆神さまの祝福の内にすべてある気がしている。今

の教団の結論と共に悲しみが襲っている。お母さん方も覚悟はしていても手の中の宝物が取り去られたよ

うな虚しさを感じているに違いない。祈っていきたい。

 その他にも、黙想と祈りの夕べが9月で終わるのは寂しいという発言や私の免職のことについての発言

がありました。


            「洗礼、旅立ちの式」     9月26日


 洗礼は旅立ちの式です。ユダヤ人たちは、紅海を渡り、約束の地へと大移動しました。イエスご自身も、

苦しみと死を通って、天の御父の家へ移ることを願いました。これがイエスの洗礼でした。「このわたし

が受ける洗礼を受けることが出来るか」(ルカ10:38)とイエスは弟子たちに尋ねられました。今イエス

は私たちにも尋ねておられます。使徒パウロはそれ故に、私たちの洗礼についても、「イエスの死にあず

かる」洗礼という言い方をしています(ローマ6:4)。

 洗礼を受けるとは、イスラエルの人々と共に、またイエスと共に旅に出ることです。奴隷状態から自由

へ、死から新しいいのちへの旅です。それは、イエスにあるいのち、イエスを通してのいのちに加わるこ

とです。


                 (ヘンリ・J・M・ナウエン『今日のパン、明日の糧』より)