なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(289)復刻版

 今日は、朝早めに鶴巻を出て、湘南台で人と会い、その後地下鉄で上大岡に出て、京急に乗り換

えて船越教会に来ました。船越教会に着いたのは午後2時ごろですが、雑用をしているうちに時間

が経ってしまいました。今日も、「黙想と祈りの夕べ通信(289)」復刻版を掲載します。


      黙想と祈りの夕べ通信(289[-28]2005・4.10発行)復刻版


 4月3日の祈祷会は青年会の担当でした。伝道師の送別会の後、OさんがWさんに祈祷会の話を頼

んでいました。その時私もそばにいましたが、Wさんは引き受けてくれました。当日Wさんは自分

は洗礼を受けていないのに、祈祷会の話をしてもいいのか迷ったと言っていましたが、準備をして

きたことを話してくれました。先ずはじめにシモーニュ・ヴェイユの『カイエ』の一節を引用し

て、彼が高校時代から関心があったという消費(浪費)をテーマにした話をしてくれました。なか

なか面白い話でしたので、私の理解した限りで彼の話を紹介させてもらいたいと思います。

 人間の営みには生産と消費の二つがある。生産は物を作ることで、人間の生産活動があって人間

社会は成り立っている。しかし、消費も生産と共に人間の重要な活動である。たとえば芸術の世

界、音楽や絵画に携わっている人は生産ではなく、消費の人である。学問する人も宗教家も消費の

人である。自分は高校時代から浪費に関心があり、浪費をテーマにした小説を書いたことがある。

財産をすべて使い果たし、最後は自分の命まで浪費するという小説である。シモーヌ・ヴェイユ

カトリックに触れていたが、洗礼はうけなかった。しかし、神を信じていた。ある種破天荒で狂気

の人である。ジャンヌダルクのような人である。哲学を学ぶが、学者になる道を進まず、工場労働

者になったり、スペイン戦争に参加したり、ドイツ軍の侵攻に対して戦うフランス軍従軍看護婦

になったりして、最後は餓死同然の死に方をした。シモーニュ・ヴェイユは浪費の人である。通常

人は自分の命と生活を守るという生き方をしているが、ヴェイユのような人は自分の命も生活も守

るというよりは消費する、浪費するのである。そのような浪費の最大の人はイエスではないだろう

か。イエスは徹底的に自分と自分の命を消費し、捧げた。十字架に極まるイエスの生涯は消費と浪

費の生涯である。しかし、そのようなイエスの生涯を通して、それまでの人間と社会の行き詰まり

を打破した新しいものが生まれたのではないか。

 Wさんの話は、私なりにまとめてみると以上のようだったと思います。Wさんはそういう消費や

浪費に自分を賭けていくことが信仰であると理解しているようです。ですから、教会で洗礼を受け

ていなくても、彼はそのような信仰を求めているのだと思いますし、自分も信じていると思ってい

るのではないかと思うのです。祈祷会が終わった後で、Wさんはしきりと自分が話したことは教会

の枠組みを越えていて、教会では受け入れがたいのではないかと気にしていました。しかし、私

は、そんなことはないよ、この教会はある意味で何でもありというところがあるのだよ、と申し上

げました。彼は驚いたようでしたが、私が何でもありというのは、真摯な問いを聖書と格闘すると

ころが教会ではないかということです。ですから、Wさんの話も真摯な問いからでたものですか

ら、私たちは彼の話を聞いて、自分なりに聖書と格闘しながら応答していきたいと思うからです。

ところで、私は、最近ますます信仰とはイエスのように信じ、イエスのように生きるということで

はないかと思うようになっています。ですから、信仰は教会で洗礼を受けたクリスチャンの独占物

ではないのではないか、この世の中には匿名の信仰者がいると思うようになっています。むしろ教

会で洗礼を受けた信仰者は、時には匿名の信仰者に信仰とは何かについて学ばなければならないの

ではないかとさえ思ったりしています。本当はこの世にいる匿名の信仰者の顕在化として、洗礼を

受けたキリスト者の交わりとしての教会が現前しているというようになればと願っています。