黙想と祈りの夕べ通信(572)復刻版を掲載します。2010年9月のものです。
黙想と祈りの夕べ通信(572)[Ⅺ-49]2010・9・12発行)復刻版
9月8日(水)午後台風の影響で雨と風が強くなりました。K伝道師にも早目に帰るように言い、いつも来
ている方からも、足元が危ないので今日の黙想と祈りの夕べはお休みしまと、連絡がありました。とこ
ろが、午後7時近くには、雨も風もおさまってきました。誰が来るといけないので、何時ものように準備
し、時間が来たので、連れ合いと私の二人は礼拝堂にいました。どうしようかと話しながら待っていま
したら、一人の方が来ましたので、少し遅れて黙想と祈りの夕べを始めました。
私は、この日、まずこの黙想と祈りの夕べがこの9月末で11年間になりますので、役員会でも了承して
もらい、終了することになったことを報告しました。そして、アメリカのキリスト教会の牧師がコーラン
を燃やすというパフォーマンスを予告し、そのことがイスラムの国や人々から反発されているという新聞
記事を紹介しました。その牧師がコーランを燃やすと予告したのは、9・11で崩壊した貿易センタービ
ルの跡地近くにイスラム教のモスクが建設されることへの反発だったようです。コーランはイスラムの
人びとにとっては、キリスト教徒の聖書と同じでしょうから、このアメリカの牧師は随分荒っぽいこと
をしようとしていると思いました。本来聖書を読み、聖書から命を与えられて生きようとするキリスト
者は、イエスの教えにもありますように、「人からして欲しくないことは、人にもしてはならない」と
いう基本的な人間の生き方を大切にしているはずです。ところが、上記のアメリカの牧師のような振る
舞いに私たちは陥り易いのではと思います。特に護教的な人にはそれが強いように思われます。自らの
宗教や信仰を絶対化して、他を排する態度は独善主義になりますので、よくよく注意したいと思います。
続いて一人の方からの発言がありました。日曜学校の夏期キャンプの前半一泊2日に参加できよかった。
行く前は体調の不安を抱えていたが、足柄に来て、森、川、湿度も低く大気の気の力を感じた。2日目の
丸太の森でも結構歩けた。マスのつかみ取りも新しい体験であったし、自分はしなかったが、魚の腸を
さばくことも体験してみたかった。別の話になるが、来週民主党の代表選がある。管と小沢の一騎打ち
だが、ぼくなら小沢を入れる。マスコミの人物像では小沢は豪腕と言われているが、自分は小沢は言行
一致の人ではないかと思う。ここは譲れるが、ここは譲れないとはっきりしている。マニュフェストに
対して国民に責任があると言うし、消費税や沖縄についても、管より信頼できる。管直人の妻の本を読
んだが、厚顔無恥もはなはだしい。物事を一面的に見て、多角的に見ていない。この夫妻を権力につけ
てはならないと思う。しかし世論により、管が勝つだろう。
もう一人の人の発言がありました。この8月の暑さと後半に日曜学校夏期キャンプ、フェミニスト神学
の会、性差別問題全国連絡会と続き、忙しく疲れ切ってしまった。先週の今頃はこんなに忙しいのなら、
集会もエスケープして消えてしまいたいと思うほどだった。体は正直だ。腰痛が出て、2日ほど寝たら元
気が出て、自分でも驚いている。今自分に力が抜けているのは、認知症だった叔父を見送った後、その
叔父の妹の叔母にも軽い認知症が出ており、もう一人の上の叔母も、しっかり者で妹の叔母を気遣った
りし、自分でもデイケアサーヴィスに行ったりして、自立していると思っていたが、その叔母からもお
かしな電話をもらった。家族の者に電話して聞いたら、今年になってからおかしくなって、目の手術で
入院してから、夜昼間違えて、別人になっているという。人が年を取り、変化していくことは仕方ない
ことだし、周りの人に迷惑をかけても仕方ないと思っているが、叔父叔母の3人がそろって認知症になっ
たので、自分の将来を憂い、夏の疲れも重なって、ちょっと落ち込んでいる。神に導かれていることを
思いつつ、これから自分がどうなっていくか分からない不安もつきまとう。黙想と祈りの夕べも後今月
で終わるが、自分なりにその後も黙想と祈りの時を持ちたいと思っている。
「踏み留まる」 9月12日
社会的、政治的な不安と測り知れないほどの苦しみが溢れる世界の中で、信仰を生きようとしている人
は、いわゆる役立たずとあざけられがちです。多くの人が「愛の神がいるなら、その神にこの混乱を何と
かしてもらったらどうだ」と言うでしょう。単純に宗教は時代遅れだと言う人もいれば、新しいよりよい
世界を創っていく上で宗教は邪魔物だと言う人もいます。
イエスはご自分に従う人々に、彼らもまた自分と同じように、迫害され、逮捕され、拷問を受け、殺さ
れるだとうとたびたび言われました。けれども、イエスは私たちに「心配せず、いかなる時にもわたしを
信じるように」とも言っておられます。「前もって弁明の準備をするまいと、心に決めなさい。どんな反
対者でも、対抗も反論も出来ないような言葉と知恵を、わたしがあなたがたに授けるからである」
(ルカ21:14-15)。私たちの前に立ちはだかる疑いや冷笑を恐れないようにしましょう。そして、神が私
たちに踏み留まる力を与えてくださることを信じようではありませんか。
(ヘンリ・J・M・ナウエン『今日のパン、明日の糧』より)