なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(27)

 今鶴巻から船越教会に着いたところです。今日は夜に船越教会の月一回の聖書研究会があり、本田哲郎さんの『聖書を発見する』第3章「神はだれを選んだのか」を一緒に学びます。
「黙想と祈りの夕べ通信」(復刻版?)をこのブログに時々掲載していますが、10年以上前のことですが、それぞれが感じていること、触れたこと、考えさせられたことなどを分かち合い、共に祈る「黙想と祈り」によって、自分自身の日々の歩みが定まっていくように思えました。それは今も同じで、生きている限り途上を生きる者として、神を待ち望み、考え祈りつつ、なすべきことをなしていく日々を、イエスを信じて歩み続けたいと思います。
 
黙想と祈りの夕べ
   (通信 27 2000 42発行)
 
 前回の「黙想と祈りの夕べ」の「分かち合い」では、参加者の一人の兄弟から、「キリスト教主義の学校と子どもたちのために祈って欲しい」という発言がありました。彼はキリスト教主義学校の教師をしていますが、現場の教師としての悩みを率直に話されました。それは、一匹の羊を大切にするキリスト教の精神がキリスト教主義学校という場でもなかなか貫くことが困難であるという現実です。その話の中で「福音と世界」2000年1月号の特集記事に触れていましたので、そのところを紹介したいと思います。この「福音と世界」の特集は「教会から神学教育に物申す」というテ-マで、数名の牧師が書いていますが、その中にIさんの文章があります。このI牧師は、昨年私たちの教会の婦人会の修養会に講師としてお呼びしたOさんのお連れ合いになります。Iさんの文章は「周縁からの問い返し~神学と教育のありかた~」という題です。その中に私小説家・柳美里のことに触れて書かれている部分があります。彼女はミッション・スク-ルを高一の時に退学処分を受けました。このように書かれています。
 「この女子校での様々な体験は彼女の人生の中で大きな『トラウマ(精神的外傷)』となっているようであるが、唯一『救い』とも言える出来事として記されているのが、この学校の教職会議に於ける『K先生の良心的な発言』である。すなわち、K先生は聖書の中から『迷える羊のたとえ』を引いて、次のように訴えたという。
 『聖書には《百匹の羊を持っている者がいたとする。その一匹がいなくなったら、九十九匹を野原に残しておいて、いなくなった一匹の羊を見つけるまで、捜し歩かないであろうか》とある。この聖書の言葉を、学校は生徒に教えながら、実際は弱った羊を見殺しにしている。群れからはずれて苦しんでいる柳さんを退学にするのはおかしい』(柳美里『水辺のゆるがこ』角川書店、同著『グリ-ンベンチ』河出書房新社)」。
 理念と現実との乖離はキリスト教主義学校だけではなく、教会も同じ問題を抱えているように思います。まず私たちの教会が福音にしっかり立つことによって、キリスト教主義学校に勤める教師の方々、また現在「日の丸・君が代」の問題で厳しい立場にある公立学校の教師の方々、そして子どもたち一人一人のことを覚えて祈り、支えて行きたいと願います。
 前回の「黙想と祈りの夕べ」の「分かち合い」では、その他に一人の姉妹が、オリ-ブの会(高齢者との食事会)での一人一人の身近な体験談にその一人一人の生かされてある姿が感じられること。その中の一人の「自分は心では〈ありがとう〉と感謝しているが、〈ありがとう〉と口に出して言わないと、よく人から言われる」という発言に触れて、次のように話されました。自分はボランティアをして人から〈ありがとう〉と言われる立場になることがあり、いつの間にか人から〈ありがとう〉を言われる自分になっているように思えるが、受けたことに対して素直に〈ありがとう〉と言える人でありたいと思うと。
 以前にこんな話を聞いたことがあります。入院しているお年寄りがいて、その方を看護する人や見舞う者は、その度に大変豊かな思いにさせられるというのです。それは、そのお年寄りが、外交辞令ではなく、心から〈ありがとう〉を言う人だったからです。そういう人は受けることによって、人に与えているのでしょう。