なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

船越通信(129)

          船越通信癸隠横后 。横娃隠廓10月13日        

・6日の日曜日は、第一日曜日でしたので、昼食会、説教についての話し合い、その後役員会があ

りました。礼拝後、先ずHさんが用意してくれた昼食を机を出して並べ、すぐに食べられる状態に

してから、説教についての話し合いを行いました。この日の説教は、使徒言行録12章機11節がテ

キストでした。前半は、ヘロデ・アグリッパ一世によるゼベダイの子ヤコブの殺害とペテロの投獄

の記事があります。その最後には、エルサレム教会では牢に入っているペテロのために熱心な祈り

が続けられていたとあります。後半は、天使によるペテロの牢からの奇跡的な解放の物語です。私

は、この日の説教で、戦時下のホ―リネス教団の牧師の弾圧とそれに対する当時の教団の富田満統

理をはじめとした対応について話しました。権力の側からの弾圧をどう受けとめるかは、大変厳し

い問題で、多くの場合は真向から対決して、殉教したり、弾圧を耐える道ではなく、どううまく逃

げられるかを考えて行動するだろうと思うのです。ヤコブの場合は、剣による殺害ですから、逃げ

る間もなく殺されてしまったのでしょう。ペテロの場合は投獄されましたが、逃亡する事が出来た

のでしょう。この世の権力によるこの弾圧とか迫害は、現代ではないかというと、必ずしもそうで

はありません。学校現場における日ノ丸・君が代の問題は、特に公立の教師にとっては、不起立か

起立かの選択を強いられているわけです。私は、説教の中で、エルサレム教会の祈り(他者による

祈り)や、ペテロの脱獄に見られる天使の象徴的な意味としての神の直接介入(ペトロと神との対

話)による可能性が、私たちにはあるのではないかということを申し上げました。だからと言っ

て、こうすべきだということは、私には言えません。

・話し合いの中で、私学と公立の学校の二人の教師が、学校現場での問題についてそれぞれ話して

くれました。日ノ丸・君が代では、キリスト教主義学校の私学の場合は、公立学校ほどの問題はま

だ現われていないようです。ただ昭和天皇が死んだ時には突発的な問題は起きたようですが、それ

は一過性の出来事で終わっているということです。一方公立の高校の教師の方は、高3を担任で持

つときには、卒業式で起立・不起立の問題に必ず遭遇するということでした。度重なる不起立に

は、注意だけではなくて、減給ということもあるようです。

・思想信条の自由の問題には、自らの思想信条を貫く非転向者と、場合によっては自らの思想信条

を曲げて妥協するという転向者という問題も繋がっています。その時代や社会の中で、非転向者が

誠実で責任的な生き方をして、転向者が不誠実で無責任な生き方をしたことになるのかという問題

もあります。ナチズムの時代のドイツからアメリカに拠点を移して、思想信条の自由を侵される心

配がない状態で神学者としての研鑽を積むことができたボンフェッファーが、自分はあの時代にド

イツから逃げ出したならば、戦後のドイツの再建に参与できないのではないかと、アメリカに行く

可能性があったにもかかわらず、ボンフェッファーはドイツに留まりました。おそらくナチズム時

代のドイツで、ボンフェッファーは思想信条において、何がしかの妥協をせざるを得なかったので

はなかったでしょうか。しかし、彼はアメリカに行くことよりも、ドイツに留まることが、自分に

とってのより責任的な生き方であると考え、ドイツに留まる決断をしたのではないかと思います。

その結果、ゲシュタボによって捕らえられて、連合軍によるドイツ解放の直前に処刑されてしまい

ます。

・その時代状況の中で、何を選ぶかは、一人一人の決断によります。その決断に対して、他者は批

判は出来ますが、否定はできません。つきつめて言えば、私たちはどんな決断をしたところで、

「神さまごめんなさい、赦してください」としか言えない面があるのかもしれません。待ち望みつ

つ、祈りつつ、なすべきことを為していく以外にないのでしょう。しかも、なすべきことを為すと

いうことは、一人一人が自分で決めなければならないことです。ぜんまい仕掛けの人形のように、

私たちの行動が自分の決断によらないでも決定されているなら、楽なのですが、そこには自由があ

りません。決定があって、自由がないということは、人形であって人間ではありません。結局最後

まで、悩みながら、揺れ動きながら、自分の足で歩いて行くことなのでしょう。

・さて、今週は8日(火)午後に農伝に行くだけで、比較的自由な一週間でした。が、私の気分で

は、私のブログで「農繁期」と書きましたように、朝早くから夜遅くまで働き続けている状態に近

く感じました。寿地区活動委員会のことで委員長としてしなければならない課題があり、裁判のこ

とでは、11月4日の報告・討論集会に向けての準備があり、19日―20日と船越教会では久しぶりの

修養会があり、その準備があります。農伝のことでは、20日に神学校日に神学生が派遣された教会

の礼拝で説教をすることになっています。私は二人の学生の説教原稿に目を通して意見を言う役割

を与えらました。更に、27日―28日の兵庫の教師部研修会「現場から『伝道』を考える」というテ

ーマで講師を頼まれています。この集会の講師に神戸に来るならと、28日の午後には、兵庫教区常

置委員会主催・教師部委員会共催の教師制度問題協議会「制度と現場の狭間で“教団教師”を問う

日本基督教団教憲・教規と向き合いつつ~」の講師も頼まれました。内容を考えると、とても私

が講師を引き受けることができる問題ではないのですが、教団の教師になって44年目を迎えている

者として、また、それぞれの問題を自分なりに担ってきた者としては、断るわけにはいきませんで

した。どこまでできるかは分かりませんが、問題提起をして、兵庫の方々と話をしてきたいと思っ

ております。ということで、今週から11月4日の裁判の報告・討論集会が終わるまで、私にとって

は「農繁期」なのです。

・ところで、28日の日曜日は船越教会の礼拝を終えてから神戸に向かいますが、時刻表で確認しま

したら、金沢八景11時36分に乗らないと間に合いませんので、28日の礼拝は11時15分前に終わらせ

てもらいたいと思います。みなさん、悪しからずご了承くださいますようにお願い致します。