なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

マタイによる福音書による説教(37)

「   土台のしっかりした家」マタイ7:21-29、2019年5月19日(日)船越教会礼拝


・今日は、マタイによる福音書7章21節から29節の、山上の説教の最後の箇所から、神の語りかけを聞き

たいと思います。


・7章21節に、「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたし

の天の父の御心を行う者だけが入るのである」と言われています。また、7章24節、25節では、「そこ

で、わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた人に似ている。雨が降り、川

があふれ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった。岩を土台としていたからである」と語られてい

ます。


・ここには「わたしの天の父の御心を行う者」、「わたしのこれらの言葉を聞いて行う者」となりなさい

ということが、はっきりと記されています。ただ「主よ、主よ」と言うだけであったり、聞くだけで行わ

ない者となってはいけないと言うのです。


・この言葉は、マタイによる福音書の著者がイエスを通してマタイの教会の人々に語ったものであるとし

ても、また、イエス自身が弟子たちに語られたものであるとしても、イスラエルの民のことを思い浮かべ

ながら語られた言葉ではないでしょうか。


・旧約の民イスラエル人は、神の選びを受けてた「選民」でありました。神の選びは、イスラエル人を神

が招いて、神との契約の民に、他のすべての民の中から選んで呼び出してくださったということです。し

かし、イスラエル人はこの神の選びを自らの「権利」にしてしまい、罪を犯しました。神の選びは、イス

ラエル人の権利ではありません。彼ら・彼女らに与えられた「神の恵み」であり、その恵みに応えて生き

ていくことがイスラエル人の使命でありました。イスラエル人は神の選びを恵みとしてではなく、権利と

考えて、他の全ての民から自分たちを区別して聖なる民として自らを誇り、他を差別してしまいました。

神の招きとしての選びは、本来選ばれたイスラエルの民が神の招きに応えて、神を愛し、隣人を自分の如

く愛する神の定めとしての律法を守り、その自由と解放を告げる神の恵みに、全ての民を招くものでし

た。しかし、イスラエルの民は神の選びを自らに与えられた権利として誤って受け止めて罪を犯してし

まったのです。


・ただ「主よ、主よ」と言うだけで、神の御心を行わない見かけだけのキリスト者は、このイスラエル

過ちに陥っているのだと、マタイは語っているのです。


・「主よ、主よ」と言うことは、主の群れである教会の信仰告白です。この信仰告白を語る者がみな天国

に入るのではないというのです。


・最近の日本基督教団では、日本基督教団信仰告白と教憲教規とが踏み絵のようになうになっていて、

信仰告白と教憲教規」に従うと言わないと、教師検定試験に落ちてしまうと言われています。今年3月

まで農村伝道神学校で説教演習の講師を、私はしていました。卒業していく学生の多くは、日本基督教団

の教師検定試験を受けて、合格して補教師になって、任地に遣わされていきます。日本基督教団の牧師に

なるためには、教団の教師検定試験を合格しなければなりません。受験者は「教団の信仰告白と教憲教規

に従う」と言わなければ、教師検定試験に合格できません。洗礼を受けていない者にも、希望すれば与れ

る「開かれた聖餐」が望ましいと思っている受験者は、その考えを、教師検定試験の面接のときに公言し

たら、今の教師検定委員では合格できません。教師検定委員会は、「開かれた聖餐」は教憲教規違反だと

決めつけているからです。ですから、その人が教師検定試験の面接で、「あなたは聖餐についてどう考え

ているか」と質問された時に、正直に答えたら不合格になりますので、曖昧に答えるか、自分の考えを殺

して洗礼を受けた者のみが与ることのできる伝統的な聖餐をすると答えなければなりません。教師検定委

員は、このマタイの箇所をどう理解しているのでしょうか。


・ボンフェッファーは、マタイ福音書のこの箇所の講解の中で、「われわれが正当な信仰告白の教会のメ

ンバーであることは、神の前では何のことにもならない。われわれはこの信仰告白に基づいて救われるの

ではない。・・・神はわれわれが福音主義教会に属しているかどうかを問いたまわず、われわれが、神のみ

こころを行ったかどうかを問いたもう」と語っています。


・このように言うと、私たちの中で必ず出てくる問いは、信仰は行為とは違うのではないかという、信仰

と行為の分離を主張し、行為を問題にする者にたいして「行為義認主義者」というレッテルが貼られるの

です。


・マタイがここで問題にしているのは、「主よ、主よ」というだけの信仰と、神の御心を行う、信じて従

う信仰の違いないのです。ですからボンフェッファーはこのように言っています。


・「言う者と行う者~「言うこと」と「行うこと」~これは、直ちに言葉と行為との関係を言っているの

ではない。むしろ神の前での人間の異なった二つの態度について語られているのである。『主よ、主よ』

と言う者とは、自分が『しかり』と言ったことに基づいて要求を出す人のことであり、『行う者』とは、

服従の行為においてへりくだっている人のことである。前者は自分の信仰告白で自己義認をする人であ

り、後者は神の恵みのうえに立って服従する人である。・・・恵みに対しては、人間はへりくだって従い、

仕える以外のことをなしえないからである。・・・・行いはこうして、召すかたの恵みに対する正しい謙遜、

正しい信仰、正しい信仰告白となるのである(下線筆者)」。


・ボンフェッファーは、行いと信仰を分離していません。行いと信仰は一つの事柄なのです。信仰は、私

たちキリスト者にとっては主イエスに信頼して生きることです。信じて生きる、それが信仰です。


ヤコブの手紙の著者は、行いのない信仰なんてあるのか、あるなら見せてくれと言っています。「行い

の伴わないあなたの信仰を見せなさい」(ヤコブ2:18)と。その前にヤコブの手紙の著者はこのように言っ

ています。「わたしの兄弟たち、自分は信仰を持っていると言う者がいても、行いが伴わなければ、何の

役に立つでしょうか。そのような信仰が、彼を救うことができるでしょうか。もし、兄弟あるいは姉妹

が、着る物もなく、その日の食べ物にも事欠いているとき、あなたがたのだれかが、彼らに、『安心して

行きなさい。温まりなさい。満腹するまで食べなさい』と言うだけで、体に必要なものを何一つ与えない

なら、何の役に立つでしょう。信仰もこれと同じです。行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだ

ものです」(ヤコブ2:14-17)。おそらくマタイも同じ思いなのでしょう。


・私は、このマタイの箇所を思い巡らしながら、もう30年以上前に観た「ポセイドン・アドベンチャー

という映画を想い出しました。タイタニック号の沈没からヒントを得たストーリーではないかと思います

が、豪華客船が沈没して船の底が海上に船の甲板が海底になり、クリスマスパーティーを楽しんでいた乗

客がホールに閉じ込められてしまうという設定から、この映画ははじまります。その乗客の中に年取った

牧師と若い牧師がいます。年取った牧師は助けが来るのをここで待ちましょうと乗客に訴えます。しか

し、若い牧師はただ待つだけではダメだと言って、浸水してくるからこの場所に留まるのは危険だから、

ホールにあったクリスマスツリーをよじ登って船の船底の方へ行くことを主張します。若い牧師に従って

行くのは数名で、後の大多数の人たちは老牧師と共にホールに残りますが、浸水してみんな死んでしまい

ます。若い牧師について行った数名の人たちは浸水と競争しながら、ひっくり返った船の船底に向かって

いきます。危険なところを通ったり、浸水したところを潜水で通り抜けたりして行くわけです。途中で死

んでしまう人がでます。牧師も最後のところで死んでしまいます。数名が船底にたどり着き、船底を叩く

と救援隊が分かり、船底に穴を開けて救出するという物語です。


・この映画の中で、老牧師と若い牧師とのやり取りがあります。老牧師は神を信じて祈ってまちましょう

と乗客に呼びかけるわけですが、若い牧師は祈ってただ待つだけではだめだ。自分たちの出来ることはし

なければならないと言って、ホールに留まっているのではなく、クリスマスツリーをよじ登って、海上

方角になる船底に向かって脱出を試みるわけです。その間危険が脱出に立ちはだかる場面で、その若い牧

師は、神に向かって、「助けてくれなくていいから、邪魔しないでくれ」というようなことを言います。


・私がこのポセイドン・アドベンチャーを見たとき、1972,3年ですが、東神大・万博問題の渦中でしたの

で、まさに信仰と行為が問題になっていて、問題提起者に行為義認主義者というレッテルが貼られていた

時でした。ですから、余計にこの映画での老牧師と若い牧師の対照的な姿が印象深く感じたのではないか

と思います。ただ「主よ、主よ」と言っているのは老牧師で、神の御心行うのは若い牧師ではないかと思

いました。


・幸いなるかなという祝福の言葉ではじまっている山上の説教は、祝福の到来を告げる救いの宣言であり

ます。この山上の説教において語られているイエスの教えは、神の恵みであり、聞いて行うことを私たち

に求めているのであります。


・山上の説教の最後に当たる7章28,29節には、このように記されています。「イエスはこれらの言葉を

語り終えられると、群衆はその教えに非常に驚いた。彼らの律法学者のようにではなく、権威ある者とし

てお教えになったからである」と。群衆は、イエスの言葉に、その言葉を実際にご自分で生きているイエ

ス自身を感じたのではないでしょうか。そのようなイエスにインマヌエル、神われらと共にい給もうとい

う真実を、群衆は見出したに違いありません。


ポセイドン・アドベンチャーの、神に向かって、「助けてくれなくていいから、邪魔しないでくれ」と

言った若い牧師は、老牧師のように、どこかからやってきて私たちを助けてくれるスーパーマンのよう

な、機械仕掛けの神に向かって、このように語っているのではないでしょうか。彼も牧師ですから、神を

信じていたと思われます。彼にとっての神は、どこかからやってきて私たちを助けてくれるスーパーマン

のような神ではないのです。厳しい現実に直面している自分たちと共にいて、共に苦しみ、共にその苦し

みからの解放を求めて下さっている方ではなかったでしょうか。


・神はイエスにおいて生きているように、私たちの中で生きることを求めているのではないでしょうか。

今この時代と社会の中で、私たちが山上の説教を行う信仰者として立つことを、何よりも神は私たちに求

めていることを確認し、今日で山上の説教からの説教を終えたいと思います。