この10月は、私にとって農繁期のような様相を呈しています。なすべき課題も多く、頼まれたことの責
任も果たさなければなりません。今週がちょっとお休みタイムのようですが、メールのやり取りや集会で
の話の準備で、時間を使っています。13日の日曜日は、船越教会の礼拝が終わるとすぐ、新横浜のホテ
ルにかけつけます。連れ合いの従妹の子の結婚式で、親族を代表するような役割を与えられていますの
で。19日(土)~20日(日)は船越教会の修養会があり、参加者は教会に泊まります。26日(日)も船越
教会の礼拝を終えて、すぐ新幹線で神戸に行きます。26日(日)、27日(月)は神戸で、兵庫教区の二つ
の集会で話をすることになっています。また、その他にも私が責任を持っています寿地区活動委員会のこ
と、そして私の裁判支援会が11月4日(月・祝)に報告・討論集会を予定していますので、その準備があ
ります。
昨日は、こんな10月を乗り切るために、箱根湯本の日帰り温泉でゆっくり心身を緩めて、リラックスし
てきました。温泉は、聖書とともに(?)、私にエネルギーを供給してくれるところです。
今日は、やはり約9年前の「黙想と祈りの夕べ通信(275)」復刻版を掲載します。
黙想と祈りの夕べ通信(275[-14]2005・1.2発行)復刻版
今日は2004年の最後の黙想と祈りの夕べです。年末にまたスマトラ沖の大地震による津波で大きな
災害が起きました。地球規模での地震から言えば、現在は休止期から活動期に入っているのではないでし
ょうか。プレートが接している境界上にある場所をはじめ地震活動が起こり得る場所はどこでも地震が起
こっても不思議でなくなっているのかも知れません。とすれば、地球温暖化の影響による海の水位の上昇
や異常気象の頻発とともに地震による災害の多発が今後の地球規模の世界では深刻な問題となっていくの
ではないでしょうか。そのような時に戦争による大量殺戮および生活環境の破壊をはじめ、そのために消
尽される軍事費用の浪費は、地球世界の災害救援や貧困や病気の克服に回さなければならないのではない
でしょうか。まだ起きたばかりで緊急支援とは言え、スマトラ沖の地震の救援に日本が30数億円、アメリ
カが1500万ドル(1ドル100円として15億円)支出すると新聞にありました。イラクへの戦争にどれだけ
の費用が消費されているのか、私には分かりません。日本のイージス艦が一艘で1200億円とか1300億円と
か言われ、軍事演習で一発のミサイルを発射するだけで1億円以上かかるということを聞いています。在
日米軍への思いやり予算が何千億円毎年支出されていると言います。こういう戦争や軍備の拡張で得をし
ている人間は一部に違いありません。地球世界の現状は戦争や軍備に資源や費用を浪費できるほど余裕な
どなくなっているのではないでしょうか。スマトラ沖地震の津波による被害の拡大の報道に接していて、
そんなことを考えさせられています。
上記の私の発言に続いて一人の方から発言がありました。私は今年3月に60歳還暦を迎えた。その3月
頃から、それまでにはしたことのなかった経験をしていて、自分としても大変驚いている。祈りは行動に
繋がるということを今までは漠然と思っていたし、祈りが行動へと具体的、感覚的に結びつくのが遅いと
思っていたが、今年辺野古のことで、たった一人の彼女の命を守ってもらいたいとの一念から関わり、国
会前の座り込みにもしばしば参加した。国会前の座り込みは政治的な主張をもった過激な人がやるものだ
と思っていたが、何の抵抗もなく国会前の座り込みにも参加できた。それは自分の中に彼女の命を守るた
めにという、切羽詰った思いがあるからである。祈りが行動へということは、こういうものだということ
を経験した。我が身の身軽さで座り込みにも参加したが、参加することによって宗教的には関係がないが
連帯できる人が与えられた。また情報が沢山入るようになり、気になることが広がっている。それとは別
に身近な友や親戚の人との繋がりも大切にしていきたいと思っている。自分のできることは本当に小さな
一点に過ぎないことを思わされている。しかし、その小さな一点からいろいろな人と運動に繋がっていく
ことを信じたい。今年は自分としてはこれまでにはない歩みを与えられたことを感謝し、この歩みを来年
へと繫なげられればと思う。そのことを通して遠くの友とも繋がっていたい。
以上一人の方からの発言です。さて、私は最近特に社会や人間の生活が先に進んでいるにもかかわら
ず、教会はその教義にしても制度にしてもその現実についていけなくなっているという実感を強くさせら
れています。特に教区、教団の会議に出るようになって、確信に近い感じでそのように思わされていま
す。そういう意味で現在の日本基督教団の諸教会は制度疲労をきたしており、制度としての教会の耐用年
数は既に過ぎていると言えるのではないでしょうか。現実世界とそこに生きる人間から教会が根本的に問
われていることを認識し、イエスの福音の射程の広さ、深さにふさわしい教会のあり様を探求していかな
ければと切実に感じています。
2005年もまたよろしくお願い申し上げます。