なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(321)復刻版

 「黙想と祈りの夕べ通信(321)復刻版を掲載します。2005年11月のものです。

 昨日クリスマス礼拝を終えて、お昼をみなさんと共にし、それから鶴巻に帰ってきました。明日はまた

夜にキャンドルサーヴィスと祝会がありますので、早めに船越に行く予定です。


       黙想と祈りの夕べ通信(321[-8]2005・11.20発行)復刻版


 この前の日曜日にKさんと原宿教会の献堂式に行ってきました。新しく建った原宿教会の牧師はTさん

で、T牧師は同志社大学神学部卒業後当紅葉坂教会の伝道師として赴任してから、桐生東部教会、原宿教

会と三教会で働いていますが、三つの教会とも全て会堂建築の時期に重なっています。当教会以外は幼稚

園舎と教会堂の両方の建築に関わっています。当教会では現会堂が1972年に献堂しましたが、T牧師は19

63年から1967年まで在任中、当時NTTの前身の電電公社に関係していましたSさんの斡旋で金沢区全域へ

の電話帳の配布を教会で請け負ったときには中心的に担われました。私も神学生でしたので時々週日に教

会に来て、日曜日だけでは配布できないところをT牧師と一緒に配りました。

 とにかく大変なご苦労だったと思います。逆に私は紅葉坂教会も前任の御器所教会も会堂建築か全面的

な改修後に赴任していますので、会堂建築に関わったのは上記神学生時代だけです。めぐり合わせという

か、不思議を感じます。さて原宿の新会堂は大変斬新な設計で、原宿の街にマッチしているものです。い

ただいた新会堂のパンフレットには、建築費3億5千万、内自己資金1億、後の2億5千万は教会債と銀行か

らの借り入れとのことです。この金額を見るだけで、教会はどうしても内向きにならざるを得ないのでは

と思わされました。ちょうどそのころ渋谷の美竹教会から出て始めた百人町教会のことを、阿蘇敏文さん

の著書『現場からの道』を読んでいて知りました。百人町は出発の時から会堂を持たないでいくことに決

めているそうです。それぞれの信徒が自立し、自分の課題を担って自分の置かれた場所でキリスト者とし

て生きている、そのことを大切にして、コミュニティー教会としてではない教会を形成していくというの

です。したがって日曜日数時間礼拝のためにそういう個々人が集まる場所さえあればよいということのよ

うです。実際嬌風会の部屋を借りて礼拝を続けているそうです。葬儀などは友人の牧会する教会堂を借り

ているとのことです。原宿教会の献堂式に行って、会堂とは何かを改めて考えさせられています。

 上記の私の発言に続いて、次のような発言がありました。先週の聖句にこだわっている(マタイ25章37

節前後)。13日の日曜日日曜学校の中高科の礼拝で中学一年生のMさんがお祈りの中で、六カ国協議が終

わったけれど、核の問題は何も解決していないこと、また私が関わっている辺野古のことも解決していな

いが、平和が来るようにと祈ってくれた。心温まる思いがした。月曜日は基地建設反対の国会前での座り

込みに行ったら、同じ国会前に多くの若者が全国から仕事を求めて陳情に来ていた。そういうことで若者

が国会前に来るということは悲しい現実である。その若者たちが私たちの座り込みのところに来て、金額

は僅かだがカンパをしてくれたり、お金がないので持っていた若者が住んでいる夕張の飴を入れていって

くれた。また火曜日には戸部の作業所でお昼の食事作りにいったとき、メニューの他に一品プラスαを作

ったら、それが美味しかったとささやいていった子がある。小さなことだが、自分がしたことに若者から

温かく受け入れられて励まされる体験をした思いである。そういう励ましを与えられて、その日その日力

を与えられて生きていける自分を感じる。自分が小さかった時にはそのようにできたのだろうか。中学一

年生が平和を祈り、若者たちが職を求めて陳情にくる現実は悲しい。若者たちから受けるばかりだが、自

分も平和を祈りたい。

 続いて発言がありました。会堂の問題は自分も感じている。若者のことも自分も感じている。先日磐田

から岡崎まで旧東海道を歩いた。歴史的な建物や自然の変化が楽しみで、旧東海道日本橋から京都まで

歩いている。ただ全部が全部街道の風景に魅せられるわけではない。一時間も二時間もただ歩くだけで退

屈な時もある。ただそのように歩くだけの時に、かえって気になっている事を集中して考えることができ

る。一時間でも二時間でも。それは黙想のひとつではないかと思う。次の希望に向かって一生懸命歩くの

は楽しい。5キロなり6キロなり歩かなければならない。それがあって喜びも出てくる。忍耐力をもって

希望に向かって歩くとき、歩くのも苦痛ではない。歩きながら考えたことは次回でも話したい。

 続いてもう一人の方からの発言がありました。今日の聖書「愚かな乙女」はかわいそうではないかと思

い(マタイ25:1-13参照)、もうひとつの詩篇46編12節「ヤコブの神はわたしたちの砦の塔」は力強い言

葉である。両方が自分に飛び込んでくると、まとまりのない黙想の時になり、何も話すことができないと

思った。しかし、皆さんの話を聞き、黙想ではすぐにはわからない聖書の言葉を思いめぐらすことに意味

があると感じている。