なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ(17)

  昨日鶴巻から国会前の座り込みに参加してから船越教会に来る予定でしたが、途中で雨模様になり、鶴巻から直接船越教会に来てしまいました。しかし、雨は局地的で夕方までは降らないところが多かったようです。国会前の座り込みもしていたかも知れません。船越教会のある田浦、追浜近辺も曇りで雨は夜まで降りませんでした。
 船越教会に来る途中、電車の中でI牧師から電話がありました。電車中なのですぐに切り、船越に着いてから私の方からかけました。東日本大震災の被災地仙台で牧師の集まりがあり、3人の発題者の一人として出席し、「地震、沖縄・福島、北村免職」に通底する思想性をもって現場に立つことの大切さを訴えたが、被災地の牧師は被災の現実への対応に追われていて、自分の発題の主旨がなかなか伝わらなかったようだとおっしゃていました。I牧師が私に電話をくれたのは、その集会での発題者の一人であった北九州で野宿者の問題に取り組んでいるバプテスト教会の0牧師から、私の裁判へのカンパを預かったから、ということでした。私は、6月15日に中野ゼロホールであった沖縄第2期新聞広告報告集会で、沖縄と福島の方から、沖縄と福島は国策による切り捨てではないかという問いかけを受けました。福音と世界でもそのことに触れ、小さくはあるけれども日本基督教団という集団から教師免職によって切り捨てられた自分も、沖縄や福島の人には比べようがないほどのわずかな痛みではあるが、切り捨てられる者の痛みを感じているということを書きました。その意味で、I牧師が言うところの「地震、沖縄・福島、北村免職」に通底する思想性をもって現場に立つことの大切さが、多少分かるように思っています。
 今日も「黙想と祈りの夕べ」の復刻版(?)を掲載します。この私のブログが、私自身の自己満足だけでなく、聖書が開く信仰の世界と皆さんお一人一人の対話の深まりに、少しでもお役にたてばと願っています。
 
 黙想と祈りの夕べ
   (通信№ 17 2000123発行)
 
 前回の通信の裏にあります1月16日のボンフェッファ-『信じつつ、祈りつつ』の文章に一部欠損しているところがありました。「神は、ご自分を人間と結び付けるために完璧な人間を捜されないで、あるがままの人間の存在を受け入れられるのである」(下線部分欠損)。切り張りの一部が折れていて、そのまま印刷してしまったためです。申し訳ありませんでした。それにしても、このボンフェッファ-の言葉も、なかなか意味深い言葉だと思います。「完璧な人間」がどのような人なのかはよく分かりませんが、現実の私たちには多かれ少なかれ弱さや欠けがあり、完璧な人間とは程遠いことだけは事実です。そのような不完全で過ちの多い私たちを、ありのままの存在において受け入れてくださる神は、信じる者に自分らしくあることを許すエネルギ-を与えてくれます。私たちはそのエネルギ-によって、人との関わりの中でも自分らしく生きることができるのでしょう。
 さて、前回の「黙想と祈りの夕べ」は、風邪でお休みの人もあり、4人でした。その日の聖書朗読の新約は、ロ-マの信徒の手紙12章9節以下でした。その箇所の中には、「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」(12:15)という有名な言葉がありました。 パウロはこの言葉をどのような内実をもって語ったのでしょうか。パウロが「喜ぶ人と共に喜び」と語ったときに、どんな喜びをもつ人とその喜びを共有したのでしょうか。また、「泣く人と共に泣きなさい」と語ったときに、どんな悲しみをもつ人とその悲しみを共有したのでしょうか。この言葉は大変美しくありますが、この言葉のように実際に生きることは至難に近いでしょう。なぜなら、人は他者と同じようになることはできないからです。むしろ、同じようになれると思うところに、私たちの思い上りが顔を出します。他者との距離を保ちつつ、寄り添うのが精一杯ではないでしょうか。それでも、もし自分が喜んでいる時に、共に喜び、自分が悲しんでいる時に、共に悲しんでくれる友が一人でもいたら、私たちはどんなにか慰められ、励まされることでしょうか。
 私は、このパウロの言葉を実践された方として、自分のイメ-ジではパウロよりもイエスの方が思い浮かびます。いずれ説教でも取り上げることになりますが、ヨハネ福音書8章の「『姦淫』(?)の女の物語」を見ますと、人々が女を責めていたときに、地面にうずくまってじっと何か書いていたイエスの姿に、「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣く」イエスを感じます。また、当時の正統的なユダヤ人からは付き合いが禁じられていた取税人や罪人たちと、そのような禁令を破ってまで一緒に食事をされたイエスにも、そのような姿を感じさせられます。「重い皮膚病」という病を抱えて、イエスに助けを求めて来た人を、拒絶することなく迎え入れ癒したイエスにも、「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣く」人の姿を感じさせられます。そのようなイエスの姿からすると、パウロの手紙から感じ取れるパウロの姿は、教えを語る人ではあっても、さまざまな負い目や痛みを抱えて生きている人々と「共に生きる」人の姿ではありません。このイエスパウロの違いは、私たちが信仰について、教会について問題とするときに、よく考えて置かなければならない点だと思います。
 それにしても「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」という言葉は、何と慰めに満ちた言葉でしょうか。私たちは、この言葉を大切にして歩んで行きたいと思います。