なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

マルコ福音書による説教(14)

マルコ福音書による説教(14)
マルコによる福音書3:30-35
        
  「イエスの母と兄弟たちが来て外に立ち、人をやってイエスを呼ばせた。大勢の人が、イエスの周りに座っていた。『御覧なさい。母上と兄弟姉妹がたが、外であなたを捜しておられます』と知らされると」(3:3132)とあります。ここには、私達が一人の人間として存在するとき、誰れもが自分の選択を越えたところで、持たざるを得ない人間関係、特に親子、兄弟姉妹という肉親の関係から生ずる問題を、イエスご自身も負っていたことが示されています。イエスには、そのような家族の一員だけでなく、故郷ナザレには同郷の人たちがおりましたし、大工という職業を通して関係を持っていた人たちもおそらくいたでしょう。更には、ユダヤ人という民族の一員として。私達の誰もが、この世において一人の人間として現実を生きて行きますときに、様々な人間関係の中で生きていくのと同じように、イエスも地上の生涯を送られたのであります。「受肉」ということが言われますが、イエスは確かに私達と同じ肉体において、地上の生涯を送られたのであります。したがいまして、肉体として存在するときに、必ず負わなければならない、糧(物質的)の問題を始め、肉体の病い、精神的な恐れや不安を、私達と同様に負いました。また、今申しあげましたように、人間関係からくる諸問題、イエスがその固有な活動を展開されたとき、肉親からは、「気が変になった」と思われたということ、パリサイ人や律法学者からは律法違反者として糾弾されたこと、故郷ナザレでは受け入れられなかったこと、十字架の道に進んでいく過程で、苦難が迫ってくると、弟子たちでさえ、彼を捨て去ったということ等、全てイエスが私達と同じように一人の人間としてこの地上の生涯を歩まれたという証拠であります。
  そのような方としてイエスが私達の中に来たりたもうということ。そして今もみ霊においてそのような方として私達の中にいたもうということは、私達にとって何と大きな出来事でしょうか。そのようなイエスにおいて、神がご自身を啓示されたのだと言われるとき、地上におけるナザレのイエスの生涯は、驚くべき神のへり下りなのであります。私達が地上にあって天にある高き神を仰ぎ、何とかして神のほうへ登っていくには、などということを全く考える必要がないのです。神がナザレのイエスにおいて、肉体において存在し、様々な人間関係に規定され、苦しみながら生きている私達のただ中にいたもうということがここに語られているからです。イエスにおいて神は人間の営みに対して、傍観者ではなく、共苦者として、「神我らと共にいたもう」のであります。
  エスの母や兄弟姉妹たちが、イエスを囲んでいた「群衆」の外側から、人をやってイエスを呼ばせたと言われています。イエスの母や兄弟姉妹たちにとって、イエスは「子」であり、「兄」であります。私達は確かに家族という共同性のきずなで結ばれているが故に、両親の愛情と兄弟姉妹の思いやりを受けて育っていくのであります。家族の人間関係において、母や父を欠いたり、そこに本来あるはずの愛情が欠けている場合には、家族に代わる関係の中でそれが補充されないとすれば、幼い子供が成長するのには大変厳しい情況であります。その意味で、ここにおける肉親の行為は、その母として、兄弟として、姉妹として、肉親の持つ心からの愛情と思いやりから、気が変になったと思ったイエスを家に連れ返そうとしたのでしょう。あるいは、他人なら何をしようが、自分たち家族が非難されたり、片身の狭い思い思いをしなくてすんでも、自分の家族の者があまりに変わったことをしでかし、それが多くの人の評判になり、非難の対象となると、自分たちを守るために、気が変になったと思われるイエスを連れ戻そうとしたのかもしれません。家族の者であるが故に、そうでない人たち以上に、それだけ執拗に熱心にイエスをナザレの自分たちの家につれもどそうとしたのでしょう。イエスの時代のユダヤ人の中に「勘当」ということがあったかどうかはわかりません。恐らく日本人の感覚からしますと、家族の者にとっては、イエスは勘当されるに値した人物と思われたのでしょう。
  エスの回りを囲んでいた群衆も、「ごらんなさい、あなたの母上と兄弟、姉妹たちが、外であなたを尋ねておられます」と言ったといわれます。彼らもまた、肉親の者の関係を前提にしていたのです。肉親の者たちがイエスを尋ねて外にいるのだから、当然イエスも彼らの所へいかれるであろうと、考えたに違いありません。その群衆の中には、家族から捨てられた人たちもいたでしょう。古代の場合、労働力として価値のない老人や病気の者は家族から見捨てられがちでありました。そういう家族から見捨てられた者たちは、イエスが母や兄弟姉妹にどういう態度を取るのかを注目していたにちがいありません。誰もが、家族という絆を大事にしていたでしょうから。実際、家族の共同体は、人間の諸関係の中で最も強いつながりを持った関係といえるかもしれません。
  群衆にとってみれば、イエスと自分たちとの関係以上に、イエスと肉親の者たちとの関係がつよいと考えたのかも知れません。そう考えたとしても、まことに当然であったと思われます。ところが、「イエスは彼らに答えて、『わたしの母、わたしの兄弟とは、だれのことか』と言われた」というのです。イエスが一人の人間として、家族という人間関係を始め、ナザレ出身者、大工、ユダヤ人という人間関係における諸規定のただ中に、私達と同じように来たということ、それ自身驚くべきことでありますが、更に驚くべきことは、それらの諸規定を古いものとされる方であるということです。「わたしの母、わたしの兄弟とは、だれのことか」。群衆は、このイエスの反問にたいしてあの外に立っている方ですと、答えられるであろうか。イエスの言葉には、そういう返答を許さないものがあります。「そして、自分をとりかこんで、すわっている人々を見回して、『ごらんなさい、ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる』」と言われたというのです。
  群衆は、イエスの回りにいて、ただ教えを聞こうとしていただけなのかも知れません。或は、病気をいやしてもらう機会を待っていただけなのかも知れません。或はまた、人々の噂を聞いて、物珍しい気持ちだけで、イエスが何をなさるのかを見守っていただけなのかも知れません。しかし、イエスご自身のほうから、そのような群衆の一人一人を「わたしの母、わたしの兄弟」であると言って、ご自身と切っても切れない関係の中に、招き入れるのであります。無条件に、すべてのものに先行して、イエスはこの言葉を人々に語られます。
  今ここで、この聖書の言葉を聞いている私達に向かっても、イエスは同じように『ここに、わたしの母、わたしの兄弟がいる』とおっしゃっておられるのであります。イエスがまさしく語られるところにイエスご自身がいましたもうのであります。そして、イエスのいましたもうところに、イエスを中心とした交わりが生起するのであります。それは、人間の側の応答に先立って生起している出来事です。
  家族という肉親の関係も、故郷の人々という地縁血縁の関係も、ユダヤ人という民族的関係も、そのような枠の中に人間を当てはめ、それによって人間を規定し、他者との間に境界を引こうという見方を、イエスはここで相対化しているのです。そのようは共同性の中での一人一人という以上に、「わたしの母、わたしの兄弟」としての一人一人を優位に置いているのであります。そして、そういう関係を群衆や家族の一人一人に迫っているのです。
  エスを中心にしてまわりにいる群衆たちは、様々な人間関係に規定されて生きている者たちであり、社会的な立場も、思想も、感性も、異なる者たちでありますが、それらを全て相対化せしめる、より根源的な関係を、イエスは彼らと結ぶのであります。人は、その意味で、母であり、兄弟姉妹である以前に、一人の人間として「神の子供」なのです。
  エスの兄弟、イエスの家族に、血のつながりによる閉鎖性を持ち込むことは出来ません。社会的なもろもろの差別をそのまま持ち込むことも出来ません。支配・被支配の関係、抑圧・被抑圧の関係も持ち込むことは出来ません。そのように、イエスの兄弟、イエスの家族が生起するとき、この地上にあってわれわれを規定している古き絆が破られ、新しい現実として、神の支配が確立されるのです。
  35節に、「神のみこころを行う者は、誰も、わたしの兄弟、また姉妹、また母なのである」とあります。「神のみこころを行う者」とは、どのような人なのでしょうか。34節の、「自分をとりかこんでいる人々を見回して、(無条件に)『ごらんなさい、ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる』と言われたイエスの言葉とどのようにつながるのでしょうか。
  マタイによる福音書の平行記事によりますと、34節の「自分をとりかこんですわっている人々を(つまり群衆を)見回して、」が「弟子たちの方に手をさしのべて言われた」となっています。マタイは明らかに群衆と弟子たちを区別しています。そして、イエスの母、イエスの兄弟とは弟子たちなのだと、言うのです。恐らくマタイは先に書かれたマルコの、この言葉を修正したのでしょう。ルカはマルコのこの部分(34節)は全部削除しています。マタイが修正し、ルカが削除するほどに、このマルコの言葉は、革命的だったのしょう。つまり、マルコにあっては、何の限定もなく、イエスのまわりに座っている群衆が、イエスの母、イエスの兄弟・姉妹だからです。
  「神のみ心を行う者」とは、このイエスの言葉とイエスのわざが、つまり、イエスが私達の兄弟として私達の中に入って来られて、私達がこの世で結んでいる様々な人間関係を相対化し、何よりもイエスのものとされている私達。それは私達がみな「神の子供」であるという事実を根底にして、この世の様々な人間関係を、そこから見なおし、行き過ぎや過ち(絶対化)から自由に、相互に生きうる道なのであります。
  エスに従う者たちは、そのような人と人とが偏見や蔑みのない、対等な関係の中で、兄弟姉妹として生きうるイエスの招きに従う者なのです。教会の群れは、そのようなイエスに従う道を歩もうと願う者たちの交わりなのです。イエスとの絶対的な関係が私達の命でありますように。