なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

船越通信(22)

船越通信№22   2011年9月4日     
  828日(日)は夕方からバーベキューを教会で行いました。この企画は毎年行われているようです。今年もHさんを中心に、日程の調整が行われ、28日にすることになりました。普段礼拝に来れない方も来れるようにとの配慮がなされて、この日に決まりました。28日は大変暑い日でしたので、教会の庭でのバーベキューもうだるような暑さの中で行うことになるのではと思っていましたが、午後5時過ぎには、サクランボの木の繁りがちょうど日よけにもなって、案外涼しいので、一安心しました。私はすべてお任せしていましたので、どのようにバーベキューが行われるのかいささか不安でもありました。紅葉坂教会時代、日曜学校で行ったバーベキューでは火起こしが結構大変でしたし、炭火で焼くのもすぐこがしてしまい難しいのです。その役割の一人が私でもありましたので、どうなるのだろうかと心配していました。午後3時ごろにはNさんが準備にいらっしゃいました。私は仕事がありましたので、2階の牧師館で仕事をぎりぎりまでしていました。買い物に行かれたようで、そのうちにみなさんが来て、材料の準備を台所でしてくださいました。その内男性もやってきて、庭に机や椅子を運び、場所の準備をしました。夕方ですから蚊に刺されないように、蚊取り線香を要所要所に配置しました。バーベキューは炭火ではなく、電気プレート2台とボンベのガス台2台が用意されました。総勢13名で、十分に食べ飲み、それでも焼きそばなどは大分余るほどでした。最後に参加者一人一人の自己紹介と一言をもって午後9時前にバーベキューは終了しました。後片付けをして9時過ぎには皆さん家路に向かいました。私は皆さんが帰った後、戸締りをして船越教会を9時半ごろ出て、鶴巻に向かいました。
  9月5日(月)から17日(土)まで、私は夏期休暇をいただくことになっています。9月11日の礼拝のメッセージは、Hさんが担当してくださいます。週報は作っておきますが、11日の船越通信はお休みします。
  4月から船越教会の牧師としての働きをするようになって、5か月が過ぎました。早いものです。私の免職問題で裁判のことがありますので、なかなか船越教会の働きに専心することはできませんが、それでも毎日曜日礼拝を共にしていますので、船越教会を共通の場として聖書からメッセージを受けて、それぞれが遣わされた場で生きて行くという礼拝共同体の営みは少しずつ深まっていっているのではないかと思っています。しばらくはこの延長線を進んでいきたいと思っています。
  福島の原発事故による放射能の影響が大変深刻な状態であるということが明らかになっています。情報公開の遅れが目立ちますが、それ以上に高い放射能の地域に住む人々を、そのままの状態で放置している日本の政府は一体どうなっているのでしょうか。現代の棄民政策と批判されてもいたしかたないほどに、政府や官庁の動きが鈍いのは、政府や官庁が日常的に民衆に目が向けられていないからではないでしょうか。政治が誰のために行われるのかという根本的な問題が露呈しています。東日本大震災及び福島原発事故は、私達にそのことを問うているように思えてなりません。人の命と生活がきちっと守られる政治が行われる社会にしていくために。
  8月28日の礼拝説教は、マルコ福音書4章21-34節からメッセージをとりつぎました。突然引退した島田紳介の番組のひとつに「おたから鑑定団」があります。骨董の価値を判定する番組で、紳介の語りと骨董の価値の意外性が楽しい番組です。しかし、人間の営みが骨董としてしか残らないということは、人間の営みは過ぎ去るべき時間に支配されていることを意味します。ギリシャ語では一般的な時間を「クロノス」と言います。このクロノスを古代ギリシャ人は、体は人間の体つきをしていて、頭はけだものである化け物で考えました。このクロノスは毎日子供を産むのですが、その産んだ子供をみんな自分で食い殺してしまうのです。時というものは、毎日毎日新しい時が出てくるけれども、しかしその一つ一つがなくなってしまう、死んでしまうものとして捉えたのです。そういう時の中を私たちは生きているのだと。そういう理解からしますと、聖書が告げています「神の国」は、随分違うように思われます。今日のマルコ4:21-29,30-32は、明らかに神の国について譬えの形で述べられています。聖書の神の国は人間が死んでいく天国ではなく、神の支配です。詩編145編11節以下に、「あなたのみ国の栄えを彼らはのべ/大いなる力を彼らは語る。/人の子らにあなたの大いなる力を知らしめ、/み国の栄えある輝きを知らしめるために。/あなたのみ国はとこしえの国/あなたの支配は代代に続く」(関根訳)。「福音書の『神の国』はキリストにおける神の意志遂行とその展開にほかならない」という人がいます。その神の国は人間が気がつかないうちに芽が出て育ち、豊かな実を結ぶというのです。この隠れた神の国の時間とクロノスが交差する日常に私達は生きていると言えよう。自分の心の扉をどこに向かって開くのか。戦時下の教会は、自分を神にでもイエスにでもなく、国家に開いて教会を守ろうとしましたが、そういう形では教会は守れませんでした。「大君(天皇)の御戦を戦うて邁進する。そこに我等の信じる神への奉仕の道があり」は戦時下明治学院学院長の訓話の一節です。一方「俺は人間とくに現代の日本人の人間性に絶望を感じている。おそらく今の人間ほど神から遠くかけはなれた時代はないと思う」(明治学院生・長谷川信)(共に『心に刻む』から)。私達は今神の国の時間をどう生きるのでしょうか。