なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

船越通信(49)

船越通信癸苅后  。横娃隠嫁3月18日     

・3月11日の船越教会の礼拝で3人の方々の転入会式が行われました。私は同じ教団教会からの転入会者の転入会式のときには、他教団からの入会とは違いますので、転入会者に礼拝堂の前に出て立ってもらい、ヨハネ福音書15章前半を朗読し、二つの勧めを述べて、最後に祈りで終わることにしています。紹介は礼拝が終わってから報告の中でいたします。紅葉坂教会のときには、報告が礼拝の中にありましたので、その報告で紹介していました。転入会者に対する私の勧めの一つは、信仰者にとって自分でできる神との対話である聖書を読むことと祈ることを大切にしてもらいたということです。私は信仰とは聖書の神との対話だと思っています。その神との対話は聖書を読み祈ることによって誰にでも与えられています。神は聖書を読まなくとも自分の想像によるイメージだけでも描けるという方もいらっしゃるかも知れませんが、私はそれだけでは貧困であり固定化され、場合によっては歪んだ神イメージしか描けないように思えてなりません。知られざる神を知るということにおいては、聖書が私たちにどれだけ豊かなものを与えてくれるか計り知れないものがあるように思います。また、聖書の人々による神との対話の歴史を知ることによっても、私たちがどのように神と対話しながら生きていくのかということを知らされます。祈りは現実生活の中で悩み苦しみながら生きている私たちの神への訴えでもありますが、そのように見えない神に訴えるという通路が私たちに与えられているということも大きな恵ではないかと思います。人間は表層から深淵に向かって行けばいくほど孤独な存在でもありますので、祈りによる神との対話を持つ者は、孤独ではありますが孤独ではないという不思議を経験していると思います。人は他者である多くの人からの支えと見えない神による支えを経験しているとき、生きていることを肯定し、暴風が吹きまくっている現代世界でもかろうじて生き抜くことができるように思います。そういう意味で他の人にも聖書と祈りを日々の生活で大切にしていってもらいたいと思っているのです。もう一つの勧めは、教会を大切にしてほしいということです。人間集団としての教会は躓きに満ちています。その躓きによって教会を去る人も多いと思います。たとえ目に見える教会を去っても普遍的な見えない教会を信じていけばいいともいえるのですが、具体的な人間集団である見える教会に連なるということも捨てがたいのです。キリスト者は洗礼を自覚的に受けて教会の群れの一員になります。キリスト者にならなければ教会という関係性を引き受けなかったと思います。キリスト者になったのでそれを引き受けることになりました。引き受けた以上それを死ぬまで続けていこうではないかというという呼びかけです。そうでなければならないとは言えませんが。

・3月11日には礼拝後3人の転入会者を囲んでお祝いの会(食事会)が行われました。持ち寄りによる豊かな食事を共にし、教会を代表してWさんから歓迎の言葉を語ってもらいました。続けて3人の方々に一人ずつご挨拶をいただき、会を終了しました。この日はTさんがコーディネーターされた耳の不自由な方のためのパソコンによる口述筆記の講習会が船越教会でありました。午後2時より6時過ぎまで行われました。たまたま口述筆記の講師の方が、バプテスト霞ヶ丘教会の信徒の方で、三春台の関東学院中高のことも良くご存じの方でした。関東学院三春台は私の出身校ですので、休憩の時間にその方と話が弾みました。午後6時半過ぎに船越教会から鶴巻に向かいました。

・15日(木)は久しぶりに国会前の辺野古新基地建設反対座り込みに参加しました。参加者は最初私を含めて3人、終り頃一人加わりました。また、別にこの日は沖縄から来たお二人の方が、横断幕とスピーカーで、米軍への思いやり予算年間2000億円をやめてそれを東北の被災者支援に回すことを訴え、国会前を通る人に署名を呼び掛けていました。午後4時になり、片付けをして、私は地下鉄で三田まで出て、京浜急行直通の特急に乗りました。この日は夜に船越教会の聖書研究がありました。この日の聖書研究の個所はマタイ福音書20章機16節でした。荒井献さんの『問いかけるイエス』という「福音書をどう読み解くか」という副題のある本の中でこのマタイ20章の「ぶどう園の労働者」のたとえが取り上げられています。参加者にはそのコピーを用意しました。荒井さんによれば、この譬えは以下のように読み解かれています。「イエスにとって問題なのは、いずれにしても、律法を基準として人間の価値にランクをつけようとする『合法的能率主義』そのものであった。イエスはこれに『否』をつきつけたのである。・・・・人間はすべて、約束された『賜物』(「1デナリオン」!)としての『存在』において平等であり、律法は元来、その基本的『存在』、その尊厳性を守るために人間に与えられたものであった。ところが、その律法が逆に人間を支配し、律法に従うことのできない人間をその『存在』において差別しているのが現実であるならば、そのような『存在』にこそ、律法の遵守とは無関係に、神の元来の約束が果たさるべきである。イエスは、『ぶどう園の労働者』のたとえをもって、このことを主張し、この主張に自らの存在そのものを賭けたのであった」と。

・11日の説教は私ブログ「なんちゃって牧師の日記」3月14日に掲載していますので、そちらをご覧ください。