なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(20)

 私は今日から夏休みになります。4月以来木曜日午後から日曜日までとはいいながら、船越教会に単身で生活してきましたので、月曜から水曜までは自分の時間ではありますが、ゆっくり休むという気持ちにはなかなかなれませんでした。この2週間は、少し教会のことから離れて、のんびりと過ごしたいと思っています。けれども、その間裁判のことでやらなければならないこともあります。本当に休めるのは、人生が終了してからなのかも知れませんね。
 では、今日は「黙想と祈りの夕べ通信」(復刻版?)を掲載します。アランの言葉を味わってもらえればと思います。
 
  黙想と祈りの夕べ
   (通信№ 20 2000・2・13発行)
 
 前回の「黙想と祈りの夕べ」における「分かち合い」では、二人の方から話がありました。二人の話には、期せずして、それぞれ重い荷を負う者の中にあります、決して後向きの生き方ではない、積極的な考え方・生き方に触れるものがありました。
 一人の方の話は、自分が経験したボランティアからのものでした。彼女は、障がい児のお母さんのためのボランティアグル-プに所属し、要請があるとその家庭に出掛けて行き、子どもの世話をします。その間その子のお母さんは、必要な用事を足したり、体調の優れないときには休んだりします。先日彼女は3人の子どものいる家庭に伺ったそうです。一番下の子は生まれたばかりの赤ちゃんで、2番目の子どもさんが血液の病気で、脳が退化していくレット症候群という大変めずらしい病気を負っていて、3歳前後になっても、指しゃぶりをし、離乳食の食事しかとれないということです。その家の部屋の壁に今年の夏に軽井沢で開かれる「レット症候群国際会議」の大きなポスタ-がはってあり、お母さんは彼女に家族で3泊4日のその大会に参加するつもりだとおっしゃったそうです。彼女は、それを聞いて、赤ちゃんを連れて障がいを負った子と共に家族5人で3泊4日の旅行をするということは大変だろうし、経済的にも大きな負担になるに違いない。それでもその大会に家族で行くというお母さんに、母の無償の愛を感じた。将来ではなく、その時その時を無心に生きる。障がいを負った子どもに突き動かされて生きているように感じて、その子のお母さんの言葉に感激した。自分はそれに比べて、いろいろ思い煩うことも多い。この家庭だけではなく、障がいを負う子のお母さんには、その子に突き動かされて生きている素晴らしさを感ずる。苦労も多いでしょうが、涙を流し尽くした人の強さというか、そういう家族に触れることができることを、自分は感謝している。と話してくれました。
 もう一人の方は、自分の体験を話してくれました。会社の仕事で一晩徹夜し、家で一眠りして、また夕方会社に行く予定だったが、どうしても体が動かず、会社を休むことになってしまった。それからしばらく体調を崩し、一週間程会社を休んでいる。こういう状態が続くことは、会社に復帰しても、前と同じような仕事をして、給料をもらうというレ-ルから外れることになるかも知れない。でも自分にとって病気は、マイナスばかりではないと思えてきた。この一週間の休みの間、忙しく働いていたときには余裕がなく考えることもできなかった、家族のことを考えられたし、どうやってこれから生きていくかということや死についても、いろいろ考えさせられた。そういう時を与えられたことは、ある種神の恵みと受けとめている。
 私は、この二人の話を聞きながら、以前読んだ村瀬学の本に書かれていた、フランスの哲学者アランの言葉を思い出しました。それは、雨が降ったとき、いやだなあ-と思うか、ああこの雨で自然の草木が潤うと思うかによって人は異なる、というものです。状況は変わらないのですが、その状況をどう受けとめるか、その受けとめ方によって、その人その人の生き方が違ってくるということでしょう。私は若い時には、どちらかと言えば、状況を変えることの方に重点を置いていたように思います。けれども、最近はますます、このアランの言葉が心に響くようになっています。厳しい現実と直面している方々が支えられるように祈り、出来ることをしていきたいと思います。