なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

船越教会通信№9

船越通信№9   2011年6月5日     北村慈郎
 
  526日、私の牧師就任式の司式をしていただくK牧師をご自宅にお訪ねしました。就任式のお願いをし、式次第の打ち合わせをしてきました。後日先生から就任式の式次第私案が送られてきました。これは教団の式文通りにではなく、船越教会独自で就任式を行うからです。そもそも教団では牧師の招聘は各個教会で行うのですから、教団は各個教会の主体性を尊重して各個教会からの牧師(主任担任教師)招聘申請には同意すべきではないかと思うのですが、今の教団は各個教会や教区を越えて教師は教団が承認したのだからという理由で、私の免職を決定し、今回も船越教会の牧師としての私を認めようとしません。ですから、船越教会では独自に私の牧師就任式を行うことにしたのです。幸い無牧時代に船越教会を支えてくださったK牧師が司式を引き受けてくださいましたので、むしろ心のこもった就任式ができるのではないかと思っています。
  527日(金)には教区の基地・自衛隊問題小委員会主催の映画会「辺野古を考える~全国上映キャラバン~」が紅葉坂教会であり、行ってきました。映画監督の藤本さんのトークもあり、改めて辺野古の基地建設反対に取り組んでいかなければと思わされました。この上映会では辺野古の他に、海兵隊の訓練の様子やアレン・ネルソンさんの「ベトナムの記憶」も上映されました。海兵隊としてベトナムに参戦したネルソンさんの体験から、戦争というものの非人間性がひしひしと伝わってきました。戦争と戦争につながる営みはすべて否定していかなければならないと、強く思わされました。
  529日の日曜日には礼拝後、Aさんの発案によるフリーマーケットが、あいにくの雨の中でしたが行われました。Wさんの3人の娘さんも積極的に参加してくれましたので、お客さんは余り多くはありませんでしたが、なかなか楽しい時を過ごすことができました。今後に繋げていければ幸いです。みなさんご苦労様でした。
  29日の日曜礼拝ではマルコによる福音書121節以下のイエスの悪霊追放物語を説教で扱いました。なぜマルコは、4人の漁師の弟子召命物語に続いて、イエスの活動の最初にこの悪霊追放物語を置いたのでしょうか。しかも悪霊の方から「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」と言ったというのです。しかも「イエスが、『黙れ。この人から出て行け』とお叱りになると、汚れた霊はその人にけいれんを起こさせ、大声をあげて出て行った。」というのです。何だか人間に支配権を及ぼす者同士での覇権争いのような様相です。私はこの物語から二つのことをお話ししました。一つは、イエスによって悪霊が追放された会堂での礼拝についてです。イエスが汚れた霊につかれた者から悪霊を追放する以前の会堂での礼拝は、イエス時代のユダヤ教では安息日毎に行われ、聖書(旧約聖書)が読まれ、その説き明かしが行われ、祈りが捧げられていました。しかしその礼拝が行われている会堂には「汚れた霊につかれて苦しむ人」がいたというのです。神を礼拝し、神の命を求め、その神の命が私たちの中で働いていることを信じていたに違いない会堂礼拝で、汚れた霊につかれて苦しむ人が放置されているという現実があったということでしょう。これは私たちの教会の礼拝にも当てはまるかも知れません。形式的には神礼拝が行われていながら、そこに神がいないという悲しい状態と言えるかも知れません。この現実にイエスは楔を打ち込み、神われらと共にという命の現実を切り開いたのでしょう。もう一つは、悪霊とイエスという構造に、パウロもガラテヤ書4章8,9節で触れています。「…しかし、今は神を知っているのに、いや、むしろ神に知られているのに、なぜ、あの無力で頼りにならない支配する諸霊の下に逆戻りし、もう一度改めて奴隷としてつかえようとするのですか」と。神信仰は、イエスの神以外に人間を奴隷にするもろもろの支配権からの解放であり、その解放を生きるということでしょう。汚れた霊につかれた人を放置しておくのではなく、また、ただ奇跡的な癒しを求めるのではなく、その人もまた神に愛された人として、神の下で共に生きていくことではないでしょうか。