船越通信№8 2011年5月29日 北村慈郎
・ 22日の日曜日は午後紅葉坂教会時代の青年の結婚式を頼まれていまし たので、金沢シーサイドラインの幸浦駅近くにあるテクノタワーホテル に、船越教会の人の車に乗せていただいて行きました。結婚式は午後3時 から行われることになっていましたが、1時間近く前にホテルには着きま した。係りの人と簡単に打ち合わせをした後、紅葉坂教会の教会員であ る新婦のお父さんとしばらく打ち合わせがてらお話をしました。このホ テルには特別にチャペルはなく、結婚式は長方形の相当広いエントラン スの一部に赤いシートのようなものを敷いて、前方中央に木の十字架 が、少し首をかしげた感じで台の上に置かれてあり、その前が教会の礼 拝堂の講壇に当たる部分になっています。真ん中に説教台があり、左右 に結婚指輪を置く台と、この結婚式ではしませんでしたが、多分新郎新 婦が誓約書を書く台のようなものが置かれています。その二つの台の外 側に高い花台の投げ込みの花が飾られています。説教壇の前から新郎新 婦が入退場する白い布のロードが、これも相当長く敷かれています。入 場の行進曲に合わせ普通の歩幅でゆっくり歩いて十分なくらの長さでし た。そのロードの左右に椅子が並べられています。奏楽はオルガニスト ではなく、音響の係りの人が担当しています。びっくりしたのは、讃美 歌も合唱の入ったCDで、「いつくしみ深き」という讃美歌の1節と3節を 結婚式では歌いましたが、どうも音響の人がCDから1節、2節を編集して あったために、プログラムは3節の歌詞なので、3節を歌っても2節の歌詞 のCDが流れてくるのです。私はすぐ音響の人が編集を間違えたと思いま したが、3節の歌詞を2節を合唱しているCDと張り合って歌いきりまし た。何とか最後まで集中して結婚式を行うことができました。私は結婚 式のメッセージには、ボンフェッファーの結婚についての考えを入れる ことにしています。ボンフェッファーは、結婚は二人のお互いに抱く好 意がなければ成立しないが、好意だけでも成り立たない。二人を結び合 わす神の定めへの信頼がなければならないと言っています。結婚は、二 人が結び合わされているその関係にお互いが自分をかけるときに、お互 いを大切に思い、かけがえのないパートナーとして愛し合って生きてい く力が与えられるのでしょう。
・ さて、15日の礼拝では、マルコによる福音書1章16節以下の4人の漁師が イエスに「わたしに従ってきなさい」と招かれて従っていったところを テキストにして説教をしました。マルコ福音書を見ますと、このイエス の招きは4人の漁師だけではなく、徴税人レビにも金持ちの男にも、特定 の人ではなく群集に向っても語られています。しかも金持ちの男の場合 は、折角イエスの招きを受けながら、財産を沢山持っていたので、それ を貧しい人に施してわたしに従って来なさいというイエスの招きに応え ることができませんでした。4人の漁師がわたしに従ってきなさいと、イ エスに招かれたとき、イエスの言葉には「人間をとる漁師にしよう」と いう言葉が加わっていました。この「人間をとる」とはどういうことで しょうか。通常この4人はイエスの弟子として、イエスの宣教活動に加わ って、多くの人をキリストに導くことだと考えられ、そのように語られ ているように思われます。しかし、鈴木正久さんは、『神の国のおとず れ』の中で、こんな風に言っています。「人間として生きることは、・・・ 『人間をとる』こと、真の人間として自己または隣人を獲得することで あり、それこそ『生活』と呼べるものではないか? イエスの召しは、 浮き世の海の中で、真の生活を、人間性を喪失している私たちを、主体 的・自覚的生活者に生まれ変わらせる」と。つまり「人間をとる」と は、「真の人間として自己または隣人を獲得すること」だと。それは 「己の如く隣人を愛する」者になるということ尽きるでしょう。という ことは、真の人として生きたイエスを、キリストと奉って崇めるだけで なく、そのイエスの生き様に倣って生きることでしょう。そのようなわ たしたちを招く「わたしに従ってきなさい」とのイエスの招きに従っ て、私たちも、生存を支える日毎の糧のための働きそのものが厳しくな ってきている今の状況の中で、他者である隣人と共に生きていきたいと 願います。