なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

船越通信№7

 
 今日は、船越のパソコンが印刷機に繋がらないため、週報の印刷ができずに、東京に演奏会を聴きに行った後、鶴巻に戻り、週報の原稿を作っています。そこで、明日の週報に載せる船越通信№7を、このブログに掲載します。
 
船越通信№7   2011年5月22日     北村慈郎
 ・ 15日の日曜日も、1日、8日に続いて、礼拝に新しい方が出席しました。この4月に農村伝道神学校の校長になりました高柳富夫さんご夫妻と、川崎の生田教会のオルガニストの方が横須賀に行くので船越の礼拝に出たいと電話があり、出席しました。私は礼拝の時は、説教の時に講壇に立つまで、礼拝堂の一番前の席にいます。礼拝が始り、最初の讃美歌の声で、その日の礼拝出席者がどのくらいかが分かります。10人を越えますと、讃美歌が大きく、力強く聞こえます。この日は特に大きく聞こえました。船越教会はヒムプレーヤーで奏楽しています。礼拝が終わってから、生田のオルガニストの方から、奏楽者がいない教会に奏楽者を派遣するグループの活動があることを知らされました。礼拝後しばらくみなさんとお茶をして、懇談の時を持ちました。高柳さんは、聖餐のことで私が教団から免職処分をうけているので、私のような者をよく船越教会は牧師として迎えたとでも思われていたようです。もしかしたら、だからこの日船越教会に来られたのかも知れません。高柳さんは農伝では日曜礼拝がないので、校長は日曜日フリーなので船越教会に見えたとおっしゃっていましたが…。
・ 私は、3月末で紅葉坂教会の牧師を辞任して、4月から船越教会の牧師に就任しましたが、教団は私の紅葉坂教会主任担任教師の辞任届にも船越教会主任担任教師招聘申請届けにも同意しません。教区は教団が同意しないので二つの届け出を私に返してきました。従って現在私は幽霊のような存在です。紅葉坂教会は新任牧師の招聘申請を教区、教団に届け出しましたが、その書類の中に主任担任教師としての私の名が入っているものがあるというので、一度は教団の同意を得られず、返されてきました。紅葉坂教会はその後書類を別の形に整えて教団に出し、同意が得られたようです。船越教会は私の免職処分に伴うリスクを背負う覚悟を決めて、私を牧師に迎えてくれました。感謝しています。私の場合、開かれた聖餐執行は教会の総意の中で牧師として行ったものです。今までもそうですが、今回の教団のやり方には怒りを感じています。
・ 15日の説教では、マルコ福音書114-15節から、バプテスマ
ヨハネが捕らえられた後、イエスガリラヤで宣教を始めたことに焦点を当てて話しました。ヨハネはヘロデ・アンティパスの不正を糾弾したために逮捕され、後に殺害されてしまいます。民衆は、ヨハネから悔い改めのバプテスマを受け、不正のはびこる当時のユダヤ社会に正義が到来し、希望をもって生きられるようになるのではと、ヨハネの出現とその活動に期待したと思われます。しかし、ヨハネの逮捕と殺害によって、その希望は夢と消えていこうとしていました。希望の光を見出したにもかかわらず、その光がすぐに消えてしまうとき、期待した民衆は失望落胆し、ヨハネの出現以前の状態よりもさらに深い絶望に陥るに違いありません。そのような時に、イエスが活動を始めたのです。「時は満ちた。神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」と。この「時は満ちた」の「時」はカイロスという言葉です。通常の人間の生活時間はクロノスという言葉で言い表されますから、この時は、カイロスが瞬間やチャンスを意味するように、人間の生活時間に一瞬一瞬神の時間が突入してくることを意味しています。カイロスがクロノスを揺さぶるのです。ティリッヒは、「カイロスは、永遠が時間的なものを揺り動かし、変容せしめつつ、また人間存在の深みに危機をもたらしつつ、時間の中に突入してくる時間における顕著な瞬間である。そしてその瞬間は歴史によって期待され準備されたものを満たしつつやってくるので、〈時は満ちた〉と言われるのである」と言っています。永遠=神の国の到来は、私たちの日常性においては「完全な愛による生の共同」(宮本武之助)、己を愛するように隣人を愛することです。クロノスの中で生きる私たちは、このクロノスにカイロスが突入し、クロノスという歴史によって期待され、準備されたもの(それは相互愛と平和による生の横溢ではないか)を満たしつつやってくるのです。私たちがそのような時の満ちる今を生きていることを覚えたいと思います。