なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(57、復刻版)

 最近電車に乗っていますと、毎日のように何々線のどこどこ駅で人身事故が起きましたので、大幅に遅れて運転していますとか、どこどこ間は不通になっていますので、振り替え輸送になりますという車内放送がよくあります。私の感覚では、特に最近は多いように思われます。しかし、記録によれば、日本で1年間で3万人以上の自死者が出るようになったのは、1998年からと言われています。最近のことではないわけですが、電車の人身事故に関しては、最近多くなっているのではないでしょうか。小田急の車内放送では、ホームからの転落による人身事故ゼロをめざしていますので、携帯電話をかけながらホームの縁を歩かないようにご注意くださいというような放送が流れますので、不注意による人身事故も多くなっているのかも知れません。

 下記には10年前の「黙想と祈りの夕べ通信」が掲載されていますが、その中にも、「最近電車の人身事故が多発し、自ら命を捨てる人が多い。」と記されています。異常な状態が日常化している日本社会に生きる私たちは、どんな未来を紡ぐ実践を生きていいるのでしょうか。改めて問われているように思います。

      黙想と祈りの夕べ (通信 56[-5] 2000・10・29発行)

 「自分らしく生きる」ということと「共に生きる」ということが両立する難しさを、今回も一人の名古屋時代の姉妹から手紙をいただいて、考えさせられました。彼女には中学生の女の子と小学生の男の子がいます。その頃の子をもつ母親にとって、子供会やPTAなどで、他の子の母親たちと仕事を共にする機会があります。自分が職業をもっている場合には、実質的に昼間の集まりに出られませんので、断りやすいのでしょうが、専業主婦の場合は、健康上の理由などではなかなか断りにくいのでしょう。彼女は、おそらく責任を引き受けながら、時には体が動かずにその責任を誰か他の人に変わってもらうようなことがあったのでしょう。そういうことが多少続いたのかも知れません。すると、彼女に対して他の母親から、彼女が怠惰だという非難が出たようです。彼女は人一倍責任感の強い人ですから、決して怠惰で自分の責任を他の人に代わってもらったわけではないのでしょうが、そのように言われることがあったようです。ですから、時には無理してでも出ていったのでしょう。そのうちに、精神的にも参ってしまい、体調を崩してしまったというのです。他者との関係(交わり)が、その人が自分らしく生きることを抑圧するということがあります。共生が個々人の解放につながらず、個々人の抑圧になってしまうという事例です。私たちの社会では、かつて家族の絆や地域社会の関係が個々人の自由を阻害することが多くありました。「自立と共生」という私たちの課題は、さまざまな生活の場での人間関係に求められていることを思わされます。姉妹が勇気をもって自分らしく生きることができますように。

 「分かち合い」では、上記の私の話に続いて、一人の姉妹が、命の大切さについて以下のような話をしてくれました。

 今日日曜学校中高科の礼拝で、創世記2章の神さまが土から造った人間の鼻に息を吹き入れて、人間は命ある者となったというところを、子どもたちと共に考えた。最近電車の人身事故が多発し、自ら命を捨てる人が多い。昨日息子が家に来て、自分の高校時代の友人のことを話していった。息子は名古屋の高校を出ているので、友人も名古屋に多い。しばらく前に結婚し、名古屋の西区の賃貸マンションに住んでいた息子の友人が今回の東海地方の水害にあい、新婚の家具のほとんどが使いものにならなくなった。息子が先日名古屋に行き、他の友人とその友人のマンションに行って見たが、いなかったので実家に寄ったら、彼がいて話ができたという。彼の実家には、彼の兄さんの新しい遺影が仏壇にあった。彼の話では、東京の赤羽にいた兄が水害を心配して実家に帰り、床上浸水の彼のアパ-トと床下浸水の彼の実家の後片付けを手伝ってくれたそうだ。そしてお兄さんは朝心不全で亡くなっていたという。さらに、その友人の東北の大学時代の一人の友人は居眠り運転で事故を起こし、最近死んだそうだ。息子は、名古屋のその友人の連れ合いのお腹に新しい命が宿っていることが、光だよな-と言って帰っていった。そんな息子の話を聞いて、つくづくと一つ一つの命が大切にされることを願わずにはいられなかった。私たちの教会が命を大切にする働きに参与していきたいと思うと。

 誰かに原因があるわけでもないのに、悪い運に巡り合う人があります。私たちのできることは、そのような人に出会ったら、その人のために何が必要かを問い、自分のできることをし、その人のために祈ることではないでしょうか。