なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(248)復刻版

 「黙想と祈りの夕べ通信248」復刻版を掲載します。
 
 下記通信の記述の中に、2002年秋開催の第33回合同後18回教団総会とその後の2004年秋開催の第34回合

同後19回教団総会開催までの期間にあった一つの出来事が記されています。10年後の現在の教団の状況

は、その時と殆ど同じか、更に閉塞感を強めていると思われます。けれども、課題を担う人たちが、教団

の委員会から外されても、自主的に継続してその課題と取り組んでいることに希望を見いだしたいと思い

ます。


        黙想と祈りの夕べ通信(248[-39]2004・6.27発行)復刻版
 
 今日朗読しました聖書箇所、ルカによる福音書15章11節以下のいわゆる「放蕩息子の譬え」の中の最

後の部分について感想を述べたいと思います。この譬えはルカによる福音書では悔い改めた罪人のモチー

フが強く打ち出されているように思われます。従って財産を分けてもらい、それを使い果たして食べるこ

とにも困ってしまった弟息子が、父の家を思い出して帰ってきたのを、父は何も言わずに迎え入れ、いな

くなってしまったのに見つかった弟息子の帰還を喜び、祝宴を開いたというところが譬えの中心になって

いると思います。悔い改めた弟息子と寛大な父の愛の大きさということでしょうか。たしか岸本羊一牧師

の説教集『葬りを越えて』にも、このテキストでの説教があったと思います。題は「無力な神」ではなか

ったでしょうか。私はこの譬えを読むたびに考えさせられるのは、兄息子と父親の会話部分です。兄息子

は父親に向かって不平を言いますが、その中で自分の弟のことを「あなたの息子が・・・」という言い方

をしています。「私の弟が・・・」とは言いません。一方父親は兄息子に「お前のあの弟は・・・」と言

っています。自分の分けてもらった身代を放蕩によって食いつぶし、困り果てて父親の家に帰ってきた弟

息子を、兄は自分の弟と認めないのですが、父親は二人を兄弟として見ているのです。弟息子に対する兄

息子と父親のこの眼差しの違いが気になります。その人がそこにいることを受入れる神とその人が何をし

たかによって人を判別する私達との違いでしょうか。私はこの有名な「放蕩息子の譬え」を読み返すたび

に、父親の眼差しのことを考えさせられます。この父親の眼差しを私たちの中に少しでも組み込むことが

出来るとすれば、人間と人間とを分け隔てるいろいろな壁がなくなるのではないでしょうか。

 上記の私の発言に続いて一人の方からの発言がありました。日曜日から月曜日にかけて、第33回教団

総会で消滅した性差別問題特別委員会の再設置を求める会が名古屋で開かれた。神奈川教区からは二人が

参加した。その中の一人が私である。私は神奈川教区の性差別問題特別委員会の委員になって一年足らず

だが、名古屋ということもあり、自費参加した。11教区からの参加者があった。教団の性差別問題特別

委員会ができて、やっと性差別問題と取り組む活動ができるようになった他教派もあるが、教団の方が廃

止ということになった。しかも赤字が主な理由である。今度の再設置しようとする委員会も200万円の

活動費は全て募金で集めることになっている。この再設置をめざす会のための費用も募金で賄っている。

セクシュアル・ハラスメントの問題などいろいろ課題は多くあるのにつぶされてしまった。第33回総会

を思い出して腹が立つ。教団に所属する教会でありながら、教会によっては第33回教団総会において性

差別問題特別委員会が消滅したことも、「合同のとらえなおしと実質化」に関わる沖縄教区提案の「名称

変更」議案とその関連議案が廃案になったことも全く伝わっていないところがある。各個教会が教団の問

題を共有できない状況がある。私がかつて所属していた名古屋の教会の友人のところに寄って来たが、そ

こでも問題にならなかった。性差別問題で言えば、女性が圧倒的に多い教会にあって問題とならないとこ

ろがあるので、そこで問題にしていくエネルギーが大変である。声を挙げることの大変さを思わせられる

が、自分らしくやっていきたい。いろいろと課題を与えられて帰ってきた。