なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

船越通信(36)

          船越通信癸械供  。横娃隠映12月18日    

・12月11日の日曜日は、礼拝後船越教会がお世話になった方や遠方の教会員へのクリスマスカードに礼拝出席者が寄せ書きをし、投函しました。さっそくS先生からお便りをいただきました。以下全文を掲載します。

・「主の平安をお祈りいたします。クリスマスおめでとうございます。先日は教会の皆様の寄せ書きによるクリスマスの祝意を送って頂き、ありがとうございました。心よりお礼申し上げます。去る10月の礼拝の時は大変お世話になりました。船越教会は北村先生と共に今、教団の中でとても大切な教会として立てられています。教会としての教団はいかにあるべきかという、貴重な問いを問い続ける教会となりました。それは今日における福音とは何かを問うことです。新しい年の歩みの上に主の導きを祈ります」。S先生ありがとうございました。出来る限り期待に応えていきたいと思っています。

・11日の日曜日は、比較的早めに船越教会を出て鶴巻に帰りました。午後5時30分には鶴巻に着きました。この週の予定は15日(木)の聖書研究会まで何もなかったので、少しのんびりできるかと思っていました。すると日曜日の夜に、私が神学校を出て最初に赴任した足立梅田教会の現在の牧師さんから電話が入り、Kさんが帰天し、12日(月)午後6時から前夜式があり、13日(火)午前11時30から葬儀式が足立斎場というところであるという連絡があり、13日の葬儀式に出席することにしました。Kさんは足立梅田教会の創立からの信徒で、日曜学校の校長として、教会の役員として足立梅田教会をずっと支えてきた人です。13日の午前9時ごろ鶴巻温泉駅を出発し北千住に向かいました。北千住には10時40分頃着き、バスで足立斎場に行こうとしましたが、なかなかバスが来ませんでしたので、タクシーで行きました。足立斎場には午前11時に着きましたが、葬儀は11時30分開始で、まだ時間が30分ほどありましたので、しばらく足立梅田教会の私を知っている信徒の方々とお話ができました。このKさんの葬儀には國安敬二牧師も出席していました。実は足立梅田教会の創立にK牧師は深く関わっておられて、Kさんのことも青年時代からよくご存じだったからです。葬儀の帰り、K牧師と北千住までタクシーで出て、ちょうどお昼過ぎで先生からその辺で食事していこうと言われて、ご一緒しました。その後地下鉄千代田腺に乗り表参道で降りる先生と別れ、私はそのまま代々木上原から小田急鶴巻温泉駅まで来ました。家に着いたのが午後4時過ぎでした。

・15日(木)には聖書研究会があり、今回は常連のメンバー全員がそろいました。本田哲郎さんの『聖書を発見する』の第4章「怒りと共感」の後半を読み、感想や意見を交換しました。本田さんの聖書理解の根底には、この世で最も小さくされている人の視点で聖書を読むという視座があります。この点が理解できませんと、本田さんの聖書理解は受け入れられないのではないかと思われます。それと、聖書のメッセージがすべての人の解放にあるということが重要です。「平和とは、傷ついている人が一人もいない状態だ」と。99匹と1匹の羊の譬えで、イエスが1匹を探し求めたのは、100匹全体の羊の命を大切にされたからです。イエスにとっては、一匹を失うことは100匹を失うに等しいのです。本田さんは、苦しんでいる人の痛みの共感と共有から福音的な行動が起こると言っています。痛みの共感は、その人の痛みを引き起こしている社会的な因習や制度、法律や社会常識による解放の妨げによって、その人の選択肢がまったく奪われてしまっているにもかかわらず、自己責任や自助努力の欠如をあげつらわれるときに、当然湧いてくる怒りを含むと。福音書にもイエスの怒りが記されており、イエスの怒りは私たちの中に切り裂く分裂をもたらすことによって、偽りの平和ではなく、真の平和をもたらしたのだと。だからイエスは十字架にかけられ殺されたのだと。話し合いでは、本田さんの言っていることは分かるが、そこまで自分は徹底できないという意見が強かったように思います。

・16日の金曜日には寿地区活動委員会があり、私も出席しました。今回は12月で通常の委員会を短く行い、引き続きクリスマスの鍋パーティーを地区センターに関わって下さっている町の人たちと一緒に行いました。この日はその後鶴巻に帰り、翌日の17日の正午過ぎに紅葉坂教会でありました、約10年三つの老健施設で生活してもうすぐ満105歳を迎えようとしておられた姉妹の葬儀式に参列してから、船越教会に帰ってきました。

・12月11日の礼拝説教は「壁を超えた出会い」という題で、マルコ福音書7章24-30からメッセージを取り次ぎました。この個所はティルス(ツロ)のギリシャ人の女性の物語で、この女性とイエスとのやり取りには、イエスの方に差別的なものが感じられるところです。しかし、この女性の真摯な求めに対して、イエスは前言を翻してこの女性の求めに応えます。ここには他者との関わりによって自分を変えるイエスの姿をみることができるでしょう。さて、この女性のイエスに対する姿勢と、ファリサイ人・律法学者や弟子たちのイエスに対する姿勢との違いに注目したいと思います。ファリサイ人・律法学者はイエスに対して敵対者で、イエスを拒絶する者です。弟子たちは、イエスに従っていましたが、イエスの無理解者です。ではこの女性はと言えば、彼女はイエスに対して求める者ではなかったかと思います。そして彼女は娘の病のゆえに自分を捨てて娘のことを最優先していたのではないかと思われます。彼女は自分の日常の生活の中で、文字通り「己を捨てて、自分の十字架を背負って」生きていたのです。そのような者として彼女はイエスに出会い心の底からイエスに求めたのです。「子犬も食卓から落ちるパンくずはいただきます」と。私たちは、イエスとの関わりにおいて、一度は真摯に求めるものとしてイエスの前に立ち、そして洗礼を受けたのではないでしょうか。しかし、洗礼を受けてキリスト者になってから、イエスの弟子として、イエスに求める者としてではなくイエスと共に働く者としてイエスの側に自分を置いてしまっているところがないでしょうか。この女性のように、己を捨て自分の十字架を負う者としてイエスを真摯に求め続ける者でありたと願います。