なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

「なぜ私は教会に行くのか」2017年度修養会テーマ説教

 以下の説教は、11月21日(土)~22日(日)の船越教会の秋の修養会のテーマでの説教です。既に書い

たり、話したりしていることもあります。また普段の説教ではほとんど個人史については話していません

が、今回はテーマに関係する個人私的な出来事もお話しさせてもらいました。ご了解ください。

 

 「なぜ私は教会に行くのか」ルカによる福音書4:16-22、
 
                         2017年10月22日船越教会修養会説教


・昨日からの修養会で「なぜ私は教会に行くのか」というテーマで私たちは話し合ってきました。今日の

説教はその同じテーマで私もお話しすることにしたいと思います。結論を先に言えば、「そこに山がある

から登る」と言った登山家のように、「そこに教会があるから私は教会に行く」に尽きると思います。

・そこで、このテーマでお話しするには、私が教会と関わりをもつようになりました私自身の個人史につ

いてお話しなければなりません。ちょど2年半くらい前に荻窪教会の礼拝説教を頼まれた時に、荻窪教会

の小海基牧師から私の信仰者としての歩みについても話して欲しいと言われて、私の個人史について話し

たことがあります。その時と同じ話になりますが、まずはじめに私の個人史についてお話しさせてらいた

いと思います。

・私の名前を見て、クリスチャンの方から、「牧師にふさわしい名前ですね。ご両親もクリスチャンなの

ですか」と言われることがよくあります。私の名前「慈郎」の「慈」は慈愛の慈であり、慈しみとも読み

ます。神の慈しみと言われる場合もありますので、「慈郎」の「慈」は、キリスト教信仰とつながりのあ

る言葉といえるでしょう。ですから、私の名前を見て、「牧師にふさわしい名前ですね」とか、「ご両親

はクリスチャンですか」と言われるのではないかと思うのです。

・けれども、私の家族の中には誰もクリスチャンはいません。私一人だけ洗礼を受けてキリスト者になり

ました。高校3年のクリスマスです。1959年ですから、もう57年前ということになります。中学校からバ

プテストの関東学院三春台というキリスト教主義の学校に入学していましたが、関東学院に入ったのは、

教育熱心だった母親の意志によるものでした。他の私学も受けましたが、合格したのが関東学院だったと

いうだけでした。中学、高校と6年間キリスト教主義学校で学びましたが、高校3年の10月ごろまでは、ど

ちらかというとアンチキリスト教だったと思います。ただ高校1年の後半ごろから母が筋萎縮症で全身が

動かなくなり、寝たきりになりました。ちょうど母が寝たきりになった頃に父が責任を持っていた薬の仲

卸の会社が倒産しました。この二つのことがあって、私自身も大学受験に専心することができない状況に

陥りました。それ以前は、ある面で甘やかされてのほほんと生きていたと思います。

ナチス強制収容所を体験して生き延びた精神医家のフランクルが、その体験を書いた『夜と霧』の中

で、強制収容所で亡くなった若い女性のことを書いています。その若い女性がフランクルに言った言葉が

紹介されているのですが、それは、「以前、なに不自由なく暮らしていたとき、わたしはすっかり甘やか

されて、精神がどうこうなんで、まじめに考えたことがありませんでした」という若い女性の言葉です。

母が病気で寝たきりになったり、父が責任を持っていた会社が倒産する前の私は、この若い女性とおなじ

ようでした。しかし、この二つの出来事が重なって起きたことによって、私は悩みを抱えざるを得ません

でした。そういう中で、高校3年生の11月初めに、親しい友人に誘われて紅葉坂教会の礼拝に行くように

なりました。

・悩みを抱えてからの私は、ある意味で人間不信に陥っていたと思います。一つは自分に対してであり、

もう一つは他人に対してです。

・自分に対しては、母が寝たきりでしたから、その世話を家族がしなければなりませんでした。当然高校

生であった私にもその荷が課せられることがありました。そういう時に、時々自分の都合を優先させて、

母の思いを無視してしまうことがありました。自分では水を飲むことも、体を動かすこともできない母で

した。当然食事も排泄も、寝返りを打つことも誰かが手を貸さなければ、自分では全くできません。父親

は倒産した会社の整理や今後の自分の生活の道を求めて、ほとんど家にいませんでしたので、妹と兄と私

で母の世話をしていましたが、どうしても友人に誘われたりすると、私がしなければならない時も、兄や

妹に押し付けて出かけていきました。その自分の行動に対して、何らかの負い目を感じていたのではない

かと思います。他者である母が自分を必要としているときに、私は自分のことを優先して、その母の思い

を裏切っているという罪の感覚といったらよいのでしょうか。自分は間違ったことをしているという思い

です。

・もう一つは、父の会社の倒産で、その会社には40人から50人くらいの人が働いていましたが、薬の卸で

したが、その薬を横流して、裏切りと言いましょうか、自分の懐に入れていた人もいたりして、父親だけ

が苦しんでいるように思えて、人間って信じられないものだという人間不信の思いが自分の中で増幅して

いました。

・そういうことがあって、友人に誘われて、高3の11月初めの日曜日にはじめて紅葉坂教会の礼拝に出席

しました。私は数回礼拝に出て、また教会の人たちとの交わりにも支えられたのでしょう、その年のクリ

スマスに洗礼を受けました。その時の紅葉坂教会の牧師は平賀徳造という方で、同志社神学部の出身です

が、当時東京神学大学の説教学の教授もしていた方です。平賀先生に受洗志願の思いを伝えたとき、先生

は来年のイースターでもいいのではないかとおっしゃいましたが、私の気持ちを変わりませので、クリス

マスに受けさせてくださいと言って、強引にお願いしてクリスマスに洗礼を授けてもらいました。1959年

12月20日です。連れ合いも高校1年生でしたが、その時一緒に平賀牧師から洗礼を受けました。私が洗礼

を受けようとしたのは、人間は人を裏切るが、イエスは人を裏切らない、だからイエスに従って生きてい

こうという思いです。ただそれだけでした。キリスト教のことについてよく知っていたわけではありませ

ん。むしろアンチキリスト教でしたが、イエスとの出会いによって、私はこのイエスに最後までついて行

こうと思ったのです。

・もう一つ私の個人史の中で大きく思える出来事は、神学生時代から最初の任地である足立梅田教会時代

の10年間に関わった廃品回収を生業(なりわい)としていた人たちとの出会いです。当時そのような人たち

を括弧つきで「バタヤさん」と呼んでいました。足立梅田教会がある地域は梅田町ですが、その梅田町に

隣接して関原町や本木町がありました。本木町に「バタヤさん」が多く住んでいました。仕切屋という

「バタヤさん」が集めてきた廃品を買い取るところがあって、その仕切屋さんが長屋を持っていて、そこ

に「バタヤさん」が住んでいました。その長屋は、3畳ほどの部屋が並んでいる隙間風が入る劣悪な建物

でした。すでにその頃東京都が仕切屋さんの場所を買い上げて、そこに5階建てのアパートを作り、「バ

タヤさん」を入居させていましたが、まだ仕切屋さんの長屋で生活していた人も結構いました。私は神学

生時代から本木町にあった隣保館というセツルメントで行っていた「バタヤさん」の集会の責任をもって

いましたので、足立梅田教会の牧師になってからもその集会を続けていました。「バタヤさん」の中に洗

礼を受けた人がいて、足立梅田教会のメンバーに数名の人がなっていました。その一人の方が真冬心不全

で仕切屋さんの長屋で亡くなりました。Sさんという、相当目の不自由だった人ですが、私はその知ら

せを受けて、長屋に行き、Sさんが亡くなっている状態を見ました。集めたくずの山の中でかろうじてつ

くられている寝床で冷たくなっていました。猫がいて、布団の周りには猫の糞が散乱していました。私は

仕切屋さんと福祉の方にお願いして、教会で葬儀を出すようにしました。そしてSさんのお骨は、当時

足立梅田教会には墓地がありませんでしたので、東京教区の墓地にカロートを買って、埋葬しました。S

さんのような方が他にお一人いて、二人の方のお骨が東京教区の墓地に埋葬されています。今は合葬に

なっていますが、二人の身元引受人に私がなりましたので、今でも東京教区の墓前礼拝の案内が私の所に

来ます。

・私は、この本木での経験を通して、イエスは誰のために死んでくださったのかということを考える時

に、「バタヤさん」のようなこの社会の中で最も小さくされている方々のためではないかと思うようにな

りました。そのようなイエスの生涯と死が、わたしへの問いであり、そういう形で私のためでもあるので

はないかと思うようになっていきました。

・洗礼を受ける時に思った、「人間は人を裏切るが、イエスは決して裏切らない」ということと、イエス

の生涯と死と復活は、この世で最も小さくされている人のためであり、そのことによって、私たちすべて

のためのものではないかということとが、私のイエスに理解の根幹になりました。聖書を自分の与えら

れた生活の中で読むときに、どうしてもそのようなイエス理解にならざるを得ないというのが、今でも私

の思いの中にあります。 

・私は、その生き方や信仰観からすれば、1960年代後半に山谷に入って活動された伊藤之雄さんの影響を

強く受けていますが、伊藤さんより先に山谷で活動していた中森幾之進さんの「下に登る」や売春婦の更

生施設かにた村をつくった深津文雄さんの「底点志向者イエス」と言われるようなイエス理解に共感を覚

えています。イエスは、上をめざしたのではなく、「下」を、「底点」をめざして生きて、死んで、甦っ

て、今も私たち一人一人を「わたしに従ってきなさい」と招いておられるのではないかと思うのです。

・私はイエスが語ったこの真理とは、仕える者の真理ではないかと思います。イエスは一番上をめざす弟

子たちに対して、自分がこの世に来たのは「仕えられるためではなく、仕えるためである」と語られまし

た。100匹の羊の譬えのように、99匹を放置して失われた一匹を探し求めるイエスにとって、一匹が失わ

れることは、たった一匹が失われることではなく、残りの99匹と共に100匹全部が失われることでもあり

ました。ですから、たった一匹でも失われてはならないのです。先ほど私の個人史の中での一人の「バタ

ヤさん」の死との出会いをお話し、中森幾之進さんの「下に登る」と深津文雄さんの「底点志向者イエ

ス」というコピーを紹介しました。私たちの現実の世界は縦のひし形をしています。一部の命と生活が脅

かされえいる人たち、差別抑圧されている人たちが、その縦ひし型の底辺に追いやられています。権力や

富を持った一部の人たちが、縦ひし形の上層にいます。そして圧倒的に多くの人々がその中間層にいるの

です。イエスが宣べ伝えた神の国の福音は、神にあってすべての一人一人がかけがえの無い大切な人で、

その一人一人の尊厳が認められて、すべての人が対等・同等な存在で、「みんなちがって、みんないい」

金子みすず)のですし、「バラバラの一緒」なのです。ですから、イエスの宣べ伝えた神の国は、上も

下もないまわるい円盤の上に、みんなが手をつないで一緒にいるというイメージではないでしょうか。縦

ひし型のこの世の社会が、みんなが対等同等で、それぞれが大切にされる円盤の社会に変わっていくこと

が、神の国の到来に近づくことではないかと思います。

・先程司会者に読んでいただいたルカ福音書のナザレの会堂でのイエスの物語の中でも、同じことが語ら

れているのではないでしょうか。イエスがナザレの会堂で読んだイザヤ書の箇所は、≪「主の霊がわたし

の上におられる。/貧しい人に福音を告げ知らせるために/主がわたしに油そそがれたからである。/主

がわたしを遣わされたのは、/捕らわれている人に解放を、/目の見えない人に死力の回復を告げ、/圧

迫されている人を自由にし、/主の恵みの年を告げ知らせるためである。」≫(4:18)です。このイザヤ

書の預言の言葉を皆の前で読んで、イエスはこのように言われたというのです。≪そこでイエスは、「こ

の聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話しはじめられた≫(4:21)と。

・イエスにあって既に「神我らの共にある」神の国がこの世に到来していることを信じ、イエスに招か

れ、そのイエスの招きに応えて生きようとする者は、今ここで、それにふさわしく生きていこうとするの

ではないでしょうか。教会には聖書を通してのそのようなイエスの招きがありますので、そのイエスの招

きを受けて私は教会に来ているのであります。それが「なぜ私は教会に行くのか」という私の理由ですご

参考にしていただければ幸いです。

・祈ります。