なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(59、復刻版)

 今日は、朝早くから鶴巻を出て横須賀の路上生活者のパトロールに参加してきました。このパトロールは1ヶ月1回ですが、船越教会のメンバーが中心に担っていますので私もできるだけ参加するようにしています。さて、今日は「黙想と祈りの夕べ通信」(59、復刻版)を掲載します。        

         黙想と祈りの夕べ (通信 59[-7] 2000・11・12発行)

 今日の礼拝(11月5日)は「聖徒の日(永眠者記念日)」を覚えて、こどもと大人の合同礼拝をもちました。一人の姉妹は、生まれた時から紅葉坂教会に連なり、この教会で育ち、今またここにこうしていられることの幸を思うと言われました。彼女は、小さい頃日曜学校に通って来たが、日曜学校の子どもたちを見守る教会のおじいさん、おばあさんの存在を、いつも背中に感じていたと言う。先日のバザ-のお仕事会の時に、一緒に日曜学校に通った姉妹と、思い出話になった。姉妹のご両親は彼女たちの仲人をしてくれた方で、当時保土ケ谷から電車に乗って教会に来ていた。彼女は途中の西横浜から乗ったが、電車で一緒になったときに、彼女に、今日の洋服はセンスがいいね、と声をかけてくれたそうだ。その声を今でも鮮明に覚えていると。そういう二人の話を聞いていた他の方が、いいわね-! と言われたという。お墓参りも大切かもしれないが、既に召された方々との生前の思い出を大切にしながら、今も心の中で交流を続けていることは、故人を偲ぶひとつの形ではないだろうか。今日の「黙想と祈りの夕べ」の通信にも書かれているように、バザ-の時に踊っているHくんを見守る温かな眼差しが感じられ、そのような眼差しの中で育ってゆくことの大切さを思う。教会のお年寄りの方々も、直接お訪ねすることはそんなにできないが、その方々のことを思って祈り合うことも、命がつながっていることではないだろうか。今日の礼拝では、込み上げてくるものがあった。讃美歌21-385の「花彩る春を」を歌っていたとき、涙をぬぐっている人もいた。これから教会はどうなっていくか、わからないが、神につながっていくことの大切さを感じだと。

 また、一人の姉妹は身近な人のことを話してくれました。教会バザ-に彼女のお友達が来てくれた。その方は夫と別れ、自分の手で子どもを育てて来られた方である。ヘルパ-をして病院勤務していたが、体を酷使して、定年迄勤められず、仕事を止めて、今はゆっくりしている。彼女の健康が回復することを祈っている。教会にも来てくれることを願っていると。また、最近久しぶりに孫が自分を訪ねて来てくれた。その子は小学生の頃にいじめを受けて、親は自分に知らせないようにしていたが、自分はその子がいじめられていることが分かった。その子の妹が、お姉ちゃんをいじめていた子に真っ向からむかっていったこともあった。そのいじめを受けた孫が、福祉に進むと言って、大学をめざしている。小さい頃いじめを受けたとは思えないほど、明るくしている。自分の周りにも苦労している人が多いことをしみじみと思わされる。身近な人たちと分かち合えればと願う。聖書を読み、祈ることが、それにつながっていくことを深く感じていると。

 以上、二人の姉妹が「分かち合い」の時に話してくれました。この日の朝の礼拝説教では、ヘブライ人の手紙13章8節のことば、「イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない方です」が説き明かされました。この言葉の前には、「あなたがたに神の言葉を語った指導者たちのことを、思い出しなさい。彼らの生涯の終わりをしっかり見て、その信仰を見倣いなさい」とあります。私たちは、イエス・キリストにあって、証人としての多くの先達を与えられています。いつか私たち自身も、一人の証人として後に続く諸兄姉を見守ることになるのでしょう。永遠に変わらない方にあって、時と所を越えてある交わりに感謝。