なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(53、復刻版)

 昨夜12月3日の「北村慈郎牧師を支援する会」発足集会の準備を事務局が紅葉坂教会でしました。この日遠方の方も10数名いらしてくださることになっており、みなさんに支えられて、いよいよ裁判へのスタートになります。現在、まだ全国の教会にはこの裁判支援のお知らせは発信できていませんが、クリスマスまでには発信したいと思っています。長丁場になると思いますが、この裁判の過程を通して、教団の余りにも一方的な強権的体質を問い、できるだけ多くの方々に1941年に合同教会として出発した日本基督教団に連なるということがどういうことであるのかを分かっていただきたいと思っています。また、諸教会の伝統の違いや立場や考え方の違いがあるということを認めたうえで、対話による一致を求めていく形成途上の教会であるということも。そして寛容を基盤として、たとえ少数でも信仰の確信に燃えて生き生きと活動する信徒・教職の群れ(教会)が再生されていくことを願っています。12月3日には、弁護士によって訴状の骨子の説明もしていただくことになっています。どうぞ皆さんも、友人知人に呼び掛けていらしてくださいますように、よろしくお願い致します。

 さて、今日は「黙想と祈りの夕べ通信」(53、復刻版)を掲載します。

       黙想と祈りの夕べ(通信 53[-1] 2000・10・ 1発行)

 今日からこの「黙想と祈りの夕べ」も2年目に入ります。一年間少人数ですが、この夕べを一度も休むことなく続けることができ感謝です。

 9月24日の朝の礼拝は、「老いること」を語る礼拝として守りました。その後高齢者の諸兄姉と共に昼食会をもち、例年のような敬老祝会としての特別なプログラムはもちませんでした。日曜学校の子供たちやスタッフの方々によるプレゼントが75歳以上の出席者に配られました。染め入りの布巾とこの夏の日曜学校夏期キャンプ地道志川の石ころに絵が描かれたものです。この日の昼食会で私はたまたま92歳で現役の彫刻家I兄と同じテ-ブルに座り、いろいろお話を伺いました。兄は石ころの絵を見て、子どもの無心の絵のすばらしさをしきりと称賛していました。兄は彫刻家としての自己追究と食べることの狭間で十字架を背負って生きている己れの有り様をしきりと語っておられました。社会のシステムの中で生活の保障を得て生きるために自己追究を放棄しなければならないという人もあるでしょう。生活の維持と自己追究との狭間で誰もが苦しむものでしょうが、それだからこそ各人の個性が育まれるのかもしれません。

 ひとりの姉妹からの報告がありました。小さいことですが、うれしいことがありました。近所の婦人から声をかけられた。彼女は、小さい頃紅葉坂教会に来ていた方で、結婚してから体調がよくなく、家族の方々に労わられながら、生活している。自分としては花の苗をあげることしか考えられなかったので、家に行きポ-チュラカを差し上げた。彼女は、今年はポ-チュラカを育て、体のことを忘れられたと言われた。お花のもつ力、癒しの力を感じ、うれしかった、感謝であると。

 また、ひとりの姉妹は、ボンフェッファ-の『信じつつ、祈りつつ』の25日、27日、28日の言葉(前回通信参照)が、すべて大変響いてきたと言われました。先日オ-ル・アバウトゥ・マイ・マザ-という映画を渋谷の映画館で観た。この映画の主人公の女性は、16歳位の男の子がいて、男性と二人で生活する。子どもができた時、相手の男性はカミングアウトして去っていく。女性は妊娠を知らせず別れる。…この女性は出会った人出会った人に関わりを持ち、その人たちは彼女から生きる力を与えられる。一人の人がいろいろな人に生きる勇気を与えていく。社会的な拘束の強い男性ならば、彼女のように自由になれないかも知れないが、彼女は相手がどのような人でも差別なく、どんな立場の人とも平らに付き合い、他者に勇気を与え、自分の生活に固執しないで、その人その人に関わって行く。自分の生活があるから、自分を明け渡すことができないというのではなく、彼女のようにみんなが他者に自分を明け渡すことができれば、素晴らしい社会になるのではないかと思う。食べるために働かなければならないが、それと共に公平さ、偏見のなさをもって生きること、自己を放棄して生きることの大切さを考えさせられた。自分自身の生きる道を示されたように思うと。

 一人の姉妹が、「黙想と祈りの夕べ」をはじめて一年ということで、ム-スを作って持って来てくれました。小集会室でお茶と彼女の作ったム-スをいただきながら、しばらく交わりの時をもちました。