なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(54、復刻版)

 今日はこれから紅葉坂教会に行き、午後開催される「北村慈郎牧師を支援する会」発足集会の準備に行きます。昨夜名古屋時代の方から電話があり、「先生、教団から出て、自由に活動なさったらどうなのですか」と言われました。教団や教会とイエスは、そもそも違うのだからと。下記の黙想と祈りの夕べ通信の内容と、その人の問いは期せずして一致しました。

        黙想と祈りの夕べ (通信 54[-2] 2000・10・ 8発行)

 10月1日のロ-ズンゲン主日聖書箇所の一つは、マタイ福音書6章25-34節で、「野の草を見よ、…明日のことを思い煩うな」というイエスの有名な教えでした。私は、この箇所に触れますと、もう30年以上も前に出会って影響を受けた故伊藤之雄さんのことを思い出します。当時伊藤さんが始めていた山谷の集会に友人と二人で出たことがあります。その集会での話だったと思いますが、伊藤さんがこの聖書の箇所から、ボソボソと草が精巧に作られていて、その生命活動の不思議さを科学的にお話しておられましたのを思い出します。たしか光合成のことも語っていたように思います。まして人間の生命活動の複雑さと不思議さに話が及び、神によって与えられた命の尊さを示し、その命を生きている私たち一人一人に思いを向けるようにというすすめで終わったように思います。9月30日には、寿の講演会があり、私も出席し、釜ヶ崎で活動しておられる方のお話を聞きました。その時の講演会のテ-マは「人間を尊敬する運動を」でした。そのチラシの中にある講師からの言葉には、このように書かれていました。「寄せ場釜ヶ崎にかかわって30年、最近しきりに思うことは、人間を尊敬する運動とは、どんなスタイルの運動なのかということです。…ともすれば、わたしたちは、自分たちが有効だと考えることを相手に押しつけてこなかったでしょうか」と。一人一人が何物にも代えがたい神の賜物としての命を生きているという事実への畏敬をその根底にもたない運動は、結局は運動として自己解体して行かざるを得ないのでしょう。その点では、教会も全く同じではないでしょうか。 一人の姉妹が、寿の講演会に自分も出て、そこでフロア-の一人が、講師のキリスト教と福音は違うという発言に、自分はキリスト教が福音であると思って来たのでどういうことなのかと、強い調子で食い下がっていたことに触れて、次のように言われました。講師が神学校時代には習わなかったが、何十年かの働きの中でキリスト教と福音の違いに気づかされてきたと言われたのには、今そのことを言わざるを得ないキリスト教や教会の現実があるのではないかと思った。自分はキリスト教は福音とは違うということは常識だと思ってきたが。このことを敢えて言わなければならない教会やキリスト者って、何なのだろうかと思わされたと。

 一人の姉妹は、今日の礼拝後、先日イスラエル旅行をして自分たちが行った嘆きの壁の広場やバスで通ったところで、今パレスチナ人とイスラエル軍の衝突が起きていることをテレビで観たというU姉の話を聞いてびっくりしたこと。2ヵ月も経たないのに、こういう現実が起きているが、もし自分たちの旅行中に同じことが起こっていたらと思うと苦しい。平和を求めながら、どうして争いが起きてしまうのか。一日も早く平和が来るように祈らざるを得ない、と語られました。
 福音とキリスト教や教会との関わりは、大変重要な問題です。福音がキリスト教や教会を生み出したので、その逆ではないということは言えるでしょう。問題はキリスト教や教会が、己れが生み出された福音そのものと一体ではないということにあります。それどころではなく、両者が全く相反するということもあり得るでしょう。キリスト教や教会やキリスト者が福音と対立するという場合です。ですから、改革派の教会は、「教会は御言葉によって改革され続ける」ところにあると考えました。キリスト者各人はキリスト教と教会の歴史を背負い、福音によってその前線に生きているのです。