なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

船越通信(34)

         船越通信癸械粥  。横娃隠映12月4日     

・11月27日は礼拝後第2回目のフリーマーケットが船越教会で行われました。私は前日の土曜日早朝6時過ぎから1時間ほど、Aさんのつくってくださったフリーマーケットチラシの裏に日曜礼拝の案内を書き込んだものをアイボリーの紙に両面印刷して新たに作ったチラシ120枚を近所の家のポストに入れて回りました。船越教会から梅田公園を通って教会の裏側に回り、トンネルを出た辺りから道路を渡ってトンネルの上に行き、教会からすると道路の向こう側にある一帯を回って住宅のポストにチラシを入れました。土曜日の早朝でしたので、余り人と出会うことはありませんでしたが、2,3人犬を連れて散歩している人と出会いました。見知らぬ通行人でしたが、何となく私を見る視線が不審者を見る視線に思えて、「おはようございます」と、こちらから声をかけ損なってしまいました。さて、礼拝後準備をして、フリーマーケットを開きましたが、何と私が配ったチラシを見て、一人の人が来て下さいました。他にも来て下さった方がいたかどうかは分かりませんが、一人でもいらしてくださったということは、大変うれしいことです。

・この日私は、午後4時から蒔田教会の敷地にあります教区事務所の2階で、私が委員長として責任を持っています神奈川教区オリエンテーション委員会の今年度第3回オリエンテーションがありましたので、フリーマーケットの途中でしたが失礼して、午後2時半ごろ教会を出て、Mさんの車に便乗させていただいて蒔田教会に向かいました。教区のオリエンテーションは、戦責告白、万博・東神大問題、教師検定問題、聖餐問題のような70年以来のいわゆる教団問題と言われる諸問題について、また神奈川教区の教区形成基本方針など、これから牧師になる人、牧師になったばかりの人、教区に新しく転任してきた人を対象として理解を共有するために教区の常置委員会の下に設置された委員会です。この日も「教師検定問題について」信徒伝道者として現在F教会で働いていますIさんを講師としてお願いして発題していただきました。Iさんは、70年の東神大問題で教授会から東神大を追放された学生の一人で、その後信徒伝道者として教団の教師籍をとらないで実質的に教会の牧師の働きをしてきた人です。教師検定問題とは何かを歴史的に振り返りながら、なぜ教会にとどまりながら現在まで生きて来たのかというご自身の実存的な生き方を丁寧に話して下さいました。彼は教団の教師検定試験を受けて教団の教師になっていませんので、教師と信徒という関係においても、親鸞の言う非僧非俗のようにその境界に自分の身を置いていると自覚しているようです。その立ち位置からして、教団という教会との関わりも境界にいるということになります。その境界にある者として、おそらく内側から教団を良くしようとか改革しようとかいう幻想は持たないのではないかと思います。教団との関わりは引き受けていくでしょうが。例えば私の教団教師戒規免職処分についても、私はその処分を不当として今回裁判を起こしましたが、彼にとってはこの私のアクションは、一種の教団改革の運動として捉えているのではないかと思います。彼にしてみれば、私が教団によって牧師職を剥奪されたまま、牧師復帰をめざすのではなく、免職牧師としてそのままでずっと、それこそ非僧非俗の形で活動していく道もあるのではないかと問うているのではないかと思わされました。

・11月29日にはシャワーの会(横須賀の路上生活者のパトロール)があり、私も参加しました。午前9時に京急久里浜駅でSさんとKさんが乗ってきた自動車に合流し、いろいろな公園や駅前にいる路上生活者のパトロールをし、路上生活者の安否を尋ねて回りました。段々冬の寒い時期になりましたので、公園にいる方が少なくなっています。今回も6名の方々に出会うことができました。この方々の生存と生活が守れる社会を創っていきたいと願わずにはおれません。

・12月3日には、私の裁判支援会の発足集会が紅葉坂教会でありました。午前中相当強い雨が降っていましたが、幸い会が始まる頃には上がっていました。どのくらいの人が集まってくださるか内心多少心配をしていましたが、全国から140人強の人が集まってくれました。S先生の支援会世話人代表の挨拶(教団を愛している。開かれた聖餐には賛成しているわけではない。しかし聖餐という信仰の問題で免職ということはあってはならない)の後、私の経過説明、弁護士からの、挨拶、今回の訴訟の全体的な取り組みについて、訴状の骨子の説明があり、その後各地からの激励・連帯への挨拶が続き、最後に支援会の会則・予算案・会の組織と構成員などを議事として測り承認されて、「北村慈郎牧師を支援する会」が発足しました。裁判は長丁場になることが予想されますので、息の長いご支援をよろしくお願い致します。

・11月27日の礼拝説教は、マルコ福音書7章1-13節から、神の言葉と人間の言い伝えというこの個所のテーマからメッセージを取り次ぎました。人間の言い伝えとしての伝統は、一般的には大変大切なものです。伝統の中で人間は育ち一人立ちできるようになるからです。しかし、その人間の伝統は絶対的なものではなく、人間の被造性(神によって創られた存在におけるその人と神との根源的な交わり)と、私たちにとってはイエスの福音によって問い直されていくべき相対的なものに過ぎません。コルバンの物語に示されていますように、律法学者、ファリサイ派の人々は神への供え物と言えば、父母を敬えという戒めへの忠実を二次的に考えても仕方ないと言い伝えていたようです。しかし、イエスは父母を敬うことが神を敬うことだと言うのです。神があなたと同じようにあなたの隣人を大切にしてくださっているがゆえに、あなたが隣人を大切にすることは神を大切にすることだと。信仰は、時として私たち人間の側の解釈としての言い伝えを絶対化することによって、命の源である神の言葉(神の恵み)の豊かさを見えなくさせます。倒錯が起こり、恵の豊かさを無にしてしまうのです。倒錯という罠に陥ることなく、神の言葉としてのイエスの自由と解放の訪れを大切に生きて行きたいと思います。