なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

マルコ福音書による説教(25)

     マルコ福音書による説教(25) マルコによる福音書7:1~13

・今日のマルコ福音書のところで、イエスは、「あなたがたは、神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている」(7:8)と言って、ファリサイ人を非難しています。「人間の言い伝え」を広く解釈すれば、すべての伝統と考えてよいかも知れません。私達がこの世における生活を送る場合に、人から人に伝えられてきた伝統を全く無視することはできません。もちろん、伝統を無批判にうけいれるだけではなく、批判的に受容し、新しい伝統を創造しながら、次の世代に引き渡していくのであります。親が子供を育てる時も、自分が受け継いだものによって、子供を教育してゆきます。子供は親から、また社会から学ぶことによって、一人立ちした時に、様々な人間関係の中で、自分を処してゆくことが出来るようになるわけです。もし正しい教育がなされていなければ、そこで育てられた者は、一人立ちした時に、自分自身の未熟さによって、事態に対する判断力、決断力を欠くことになるでしょう。

・1945年(S.20)8月15日の敗戦によって、それまでの片寄った伝統が否定された私達は、戦後の時代を今日まで歩んできていますが、その間真に普遍的な伝統によって子供たちを育ててきたと言えるでしょうか。国家主義的な伝統、儒教的な伝統が否定された時、それに代わる全ての人間を生かす伝統を、私達は過去に捜し出すことも、また新たに歴史を学び直して造り出すこともしないまま、来たのではないでしょうか。大人は子供に、これぞと言える伝統を示すことができないまま、形式的な民主主義に乗っかって、物質至上主義的な風潮に押し流されて来てしまったのではないでしょうか。戦後に生まれた人たちが親となり、その子供たちが生まれて、そのまた子供たちが結婚して親となっています。しっかりした伝統のない親から育つ子供は、欲望の赴くまま進むか、社会の大勢に流されてゆくかであって、忍耐強く、自分の道を作り上げてゆく成熟さに欠けるのは当然です。そういう戦後の日本の情況と重ね合わせて考える時、むしろ、伝統の重要性を考えさせられるのであります。

・しかし、どんなに素晴らしい、また正しい伝統であっても、過去の伝統を現在に生かすのは、真の自由さに立つ者ではないでしょうか。例えば、イエスの時代のユダヤ人にとって、モ-セの律法(十戒)~ト-ラ-も、その拡大解釈による日常生活に関する詳細な規定~今日のテキストに出てくる手を洗わないで食事をすることは汚れである、とか、器物についての規定等、~ハラハ-も、すべて神の意志であると考えられ、一般にはそのように教育されていたのです。それは、大変彼ら彼女らにとっては真剣な問題でありました。安息日に関する規定を守るために、マカベヤ時代(B.C.160年頃)、シリヤとの戦争において、ユダヤ人兵士は安息日になると、戦いを一方的に止めてしまい、シリヤの軍隊によって洞窟にいたユダヤの兵士たちが焼き殺された、と言われています(マカベヤ書)。それと同様にこの浄・不浄の規定を守るために、或るラビは、ロ-マ人によって投獄された時、与えられた水を飲む代わりに、手を洗うのに用い、ついに渇きのために死にそうになった、と言われています。そういうユダヤ人指導者と、また一般のユダヤ人にとって、安息日に畑を歩いていて、実のっていた麦をとって食べたイエスの弟子たちの行動(安息日には一切の労働が禁じられ穂を揉むことは脱穀に考えられていた)、またここでの、汚い手のままパンを食べて、清浄の規定を破った弟子たちの行動は、律法違反として批判の対象となる行動でした。

・当時のユダヤ人にとっては、神の前に清くあるためには、そのような外面的な一つ一つの行為を清く守ることが必要だと考えていたのです。ちょうど私達の信仰生活にとって、ともすると、毎日聖書を読み、祈ること、毎日日曜礼拝に出席すること、献金を捧げること等、具体的な行為をたゆまず続けていくことの重要性が、イエス・キリストへの信仰という、目に見えない人格的な関係から切り離されて、それだけで意味あるものと考えられてゆくのと同じです。そして、それらを忠実に守っていれば、自分は立派なキリスト者なのだ、と考えてしまうのです。まじめな人の中には、そういう傾向が強くあります。それは、イエスの時代のユダヤ人がハラハー(律法の細則)を忠実に守っていれば、自分は神の前に義なる者なのだ、と考えたのと同じです。

・つまり、イエスの弟子たちの行動を非難したファリサイ人、律法学者、そしてそれに従っていた多くのユダヤ人たちは、神との関係を、自分たちの正しい行動によって買い取ることができるのだ、と考えていたのです。それが神の御心なのだと。彼らは神が人間に何を望み給うか、何を語り給うておられるのかを、自分たちが完全に理解していると、考えていたのです。それ故、律法学者、ファリサイ人は神の律法(神の意志)の自らが番人なのだ、と自負していました。何ということでしょうか。彼らにおいて神の戒め、神の言葉(神の意志)は、完全に人間の所有物とされてしまっているのです。

・〈伝統〉は確かに、人間がこの地上の生活を送っていくときに、重要な役割を果たします。しかし、〈伝統〉は人間がそれを固守する時、〈文字は人を殺す〉と、言われているようになるのです。固守するとは、機械的にそれを守ることです。伝統の絶対化、神聖化である。そこには人間の自由な選択も責任もないのです。ただあるのは強迫的な義務感だけです。法を破ったら大変だという人間は、法に束縛されています。法の奴隷です。そのような人間にとって、法は〈のろい〉です(本来人を生かすべく与えられた神の聖なる法でさえ、人間にとって〈のろい〉となるのです)。

・イエスはファリサイ人、律法学者に対して、「言い伝えに固執することによって、神の戒めを捨てている」と言って、非難しています。何故固執することが、神の戒めを捨てることになるのでしょうか。神の戒めは、モ-セ律法である十戒に示されています。イエスは〈神を愛すること〉と〈己のごとく隣人を愛すること〉の二つが、最も大事なことである、と語っています(マルコ12:28以下)。神を愛することは、ユダヤ人にとっても、私達にとっても、先行する神の恩恵に応える信仰です。

・神は、イエス・キリストを通して、私達すべてをご自身の下へ招き寄せておられる方なのです。何故なら神は、私たちがご自身との交わりにおいて生きることを、何よりも求めておられるからです。その交わりの相手として人間は造られたのです。そこに人間の尊厳があるのであって、その人間がどういう資質の人間であるかとか、何をしたとか、ということにあるのではありません。イエス・キリストを信じる者は、和解による神との交わりを生きます。そして和解による隣人との交わりを同時に生きます。この交わりそのものの中に、私達がゆるされて入れられているということが、私達にとっての救いであり、そのような交わりを生きることにこそ究極的な意味があるのです。この交わりは、私達が絶対に造り出すことが出来ない、恵みの出来事です。

・しかし、〈人間の言い伝えの固執〉は、そのような交わりの生を生きることから、自己の義を立てることへと、私達を転倒させるのです。神の聖さは、この地上を越えているものであるにもかかわらず、この地上の中に神殿を設け、聖・俗を持ち込み、浄・不浄を人間が決定します。本来目に見えない神を、見えるものに還元させるのです。清さも、神の前における清さ(あの交わりへの誠実な関わり)が求められるべきであるにもかかわらず、人間が自分で計ることのできる行為へと引き下げることによって、自分で自分の義を計算できるようにするのです。そのようにして神の戒めは、見事に人間の自由にされ、所有物になっていくのです。そうすることによって、神の戒めが無となります。イエスが見ていたのも、こういう人間の造り出す倒錯であったのでしょう。そこで、神の戒めも、神の言葉も全く光を照り輝かすことが出来ないまでに、人間の言い伝え、すなわち人間の倒錯という暗やみによって覆われてしまっているのです(今の社会も)。
 
・そのように、人間の言い伝えに固守する者たちが、イエスを殺します。私達はこのところにおいてもまた、イエスの十字架を見なければなりません。そのような人間の言い伝えに固執する暗さが、イエスを十字架にかけたという事実を直視しなければなりません。しかし同時に、十字架のイエスは、そのような人間の暗さそのものの死でもあります。神はイエスの十字架によって、言い伝えに固執する者を裁いているからです。そして十字架のイエスは、復活のイエスでもあります。そこに裁くことによって救う神のみ業があります。神の戒め=神の言葉は、イエス・キリストそのものです。あの二つの戒め、神を愛することと、自分のごとく隣人を愛することは、イエス・キリストによって成就完成しています。信仰はそのイエス・キリストの前にこの世と己の死を認め、イエスの前に真に死ぬことによって始まる道です。神との永遠の交わりに支えられて、この世の過ぎ去るべき相対的な世界の中で、肉体にあって、それにふさわしく生きてゆくことです。この信仰の生は、この世にあっても、熱狂とあきらめから、我々を守るでしょう。そして、そのように私達が神の戒めに立つ時、そこで人間の言い伝えもまた、和解の交わりを生きる中で正しく用いられてゆくのです。