なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(80、復刻版)

 昨日は木曜日でしたが、午後船越に移動せずに鶴巻にいました。1月31日の火曜日朝早く鶴巻を出て横須賀の京浜久里浜駅でシャワーの会(路上生活者パトロール)のSさんが運転する車でパトロールをして、横須賀中央で別れ船越教会に行きました。その日は船越教会に泊まり、ほぼ1年間たまっていましたビニールゴミを翌日の水曜日の朝に集配所に出しました。それからまた鶴巻に帰ってきましたので、通常の木曜日の移動日を金曜日にずらしたというわけです。

 さて、1月29日の船越教会の礼拝に見えた沖縄のT牧師から、一冊の本をもらいました。『「軍事植民地」沖縄』(著者吉田健正、2007年)と言う高文研から出している本です。サブタイトルは「日本本土との温度差の正体」となっています。この本を読み始めていますが、戦後米軍によって軍事植民地化されていった沖縄の現実がひしひしと伝わってきます。現在の沖縄がどのようにつくられてきたのか。その背後にはどのような意志が働いていたのかが、ヴェールをはがすように明らかにされていきます。この本の最初のところに、いわゆる1947年に米側に伝えられたという、日本本土を「ロシアの脅威」から守るために、米国による琉球諸島の長期(「25年ないし50年、あるいはそれ以上」)軍事占領を希望するという
天皇メッセージ」に触れて、このように記されています。

 「沖縄にとってみれば、『皇土』を守るための『捨て石』として悲惨な戦場にされた上に、日本国民としての憲法の適用を受けず、かつて日本の主権者であった天皇から本土防衛のために切り捨てられ、日本を守るための日米安保の犠牲にされるという、二重三重の屈辱と悲惨を味わったのである。」

 だから、天皇の戦争責任・戦後責任を問わなければと思われますが、私は最近橋爪大三郎の『冒険としての社会科学』を再読して、「影響力という点から、戦争責任を考えるなら、まず当事者である軍部。それに政府の首脳や財界、言論人など、指導的立場にあった人びと。この責任が重い。第二に、国民。本当に戦争を阻止できたのは、やはり国民である。最後に、天皇。この順序になると思う。自分の責任を棚にあげ、みんなができなかったことを、天皇にだけ求めるのはフェアでない」と書かれていることを知りました。特に「本当に戦争を阻止できたのは、やはり国民である」というところに、はっとさせられました。この言い方からすれば、「本当に沖縄の軍事植民地化を阻止できるのは、やはり国民である」と言えるでしょう。T牧師が29日の船越教会礼拝後のお話で、「沖縄の人口は日本の全人口の1パーセントです。99パーセントの大和の人たちが沖縄の現実を良く知り、沖縄の軍事植民地化に否の声をあげなければ、沖縄の人だけではどうにもならないのです」という叫びを上げていたように思えてなりません。

 今日は「黙想と祈りの夕べ通信(80、復刻版)」を掲載します。


          黙想と祈りの夕べ  (通信 80[-28] 2001・4・8発行)

 今日(4月1日)は久しぶりに訪ねてくれたT兄と話すことができました。彼は1年半程前に足の踵を骨折して湘南鎌倉病院に入院していました。私も何度か見舞いました。その後退院、リハビリを続け、職場にも復帰しました。けれども、数か月前に教会に来たときの話では、まだ歩いたり、足に力が入ると、痛みがあって、怪我する前の状態には程遠いということでした。現在はほとんど怪我以前の状態に復帰しているということです。仕事で重い荷物を持っても、大丈夫になったとのことで、私も気になっていましたので、一安心です。彼には「黙想と祈りの通信」を送っています。また通信を送っている別の姉妹から、先日彼女が焼いたというクッキ-が送られてきました。彼女とは、私は6年前に紅葉坂教会に赴任した直後のイ-スタ-墓前礼拝ではじめてお会いしました。その時彼女は、礼拝の中で讃美歌を歌っている時も私が説教している時も、涙を流し続けていました。赴任してきたばかりの私には、彼女にどういう事情があるのか、全く分かりませんでした。後で教会の方から伺いましたら、前年の年末に生まれたばかりの赤ちゃんを亡くし、教会墓地に納骨してあるそのお母さんだということでした。それ以来彼女のことを私は心にかけるようになりました。その後、彼女は男の子を授かりましたが、夫とは離婚して、その子と共に実家に帰り、自分は働きながら子どもを育てています。T兄や彼女のような方も、この「黙想と祈りの夕べ」の祈りの輪の中にあると、私は思っています。

 上記の私の発言に続いて、一人の姉妹が一人の自分の友人のことを話し、その友人のために祈って欲しいと言われました。

 何回か紅葉坂教会の礼拝にも来てくれた学生時代の友人が、筋無力症という難しい病気を患っている。この病気は80年代に手術によって治るようになったと言う。今はベットが空かないので、一ヵ月位待って手術することになっている。人に見舞いに来てもらってもつらいので、声だけということで電話をくれた。先日彼女に水野源三のテ-プ朗読等を送った。そして手紙を添えて、毎日このように祈っていると書いた。医療に携わる方に恵まれるように。家族も支えられるように。手術に彼女が消極的だったので、彼女が手術に積極的に立ち向かうことができるようにと。その後電話したら、テ-プ朗読を聞いたりして力づけられたと言ってくれた。彼女との関わりから、信仰の押しつけはいけないが、黙っているだけではなく、機会があれば、私たちが与えられている信仰の恵みを表していくことの必要も感じた。年と共に自分の周りには病の人が多くなる。毎日、今日一日を精一杯生きることの大切なを、つくづくと思わされている。弱く寂しい人と共に生きていくことの大切さを痛感させられている。彼女のために祈って欲しいと。
 前回の「黙想と祈りの夕べ」の通信にありました教会総会での発言についての記述を読んで、発言者からお手紙をいただきました。「文中私の総会の時の発言について私の舌足らずのところがありましたので、補足させていただきます。『社員の平均年令でその企業の業績が問われる』と申し上げましたのは、業績ではなく成長性・将来性が問われると申し上げるべきでした」と。兄弟が機会あるごとに教会の高齢化のゆえに、青年への伝道の必要性を訴えられていることは、諸兄姉も共感しておられることと思います。私も同じです。ただ「青年伝道」は、青年たちと私たちが共有すべき福音において一つとなるのでなければと思うのです。