なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

”いよいよ私の裁判が始まります”父北村雨垂とその作品(69)

             “いよいよ私の裁判が始まります”

 昨日私が依頼しています弁護士から、裁判所の書類審査が通っていよいよ裁判が始まるという連絡を受けました。昨日は2月1日です。昨年の2月1日には弁護士が東京地裁に行き、仮処分申請を取下げました。ちょうど同じ日の一年後に当る昨日、裁判所の書類審査が通り、日本基督教団による私の戒規免職処分を不当として訴えている私の裁判の開始が決定したことになります。昨年の2月1日仮処分申請を取下げた後、日本基督教団は一方的に、通常は説教を掲載している機関紙教団新報一面に私の仮処分申請取り下げの記事を載せ、これで私の戒規免職処分決定が確定し、この問題が全て終了したかのように諸教会・伝道所に伝えました。その時も教団側の一方的な記事に私は抗議し、私にも記事を書かせるように総幹事及び教団新報主筆に手紙を出しましたが、一切返答がなく、無視されてきています。
 
 私はこの裁判を通して、私の戒規免職処分が手続き上一宗教団体内における懲戒権の乱用に当たることを明らかにしていくとともに、同時に一宗教団体における人格権や名誉権の侵害に焦点を当てて闘っていきたいと思っています。日本社会には宗教団体だけでなく、労働組合、様々な団体があり、また政治的なセクトや党派もあります。そのような集団の中で行われていることが、憲法で保障されている基本的人権の尊重に立っているかどうかという検証の展開にこの私の裁判が繋がることを願い、今回の私の日本基督教団における戒規免職処分のように、公平で真摯な議論を全くすることなく、多数の横暴をもって教団から私を排除するようなことがあってはならないことを教団内外に訴えていきたいと思っています。

 どうぞ日本基督教団内の方々はもちろん、一般社会の方々にもこの私の裁判に関心を持っていただけるように皆さんの友人、知人に働きかけて下さいますように、よろしくお願いいたします。

 さて、今日は「父北村雨垂とその作品(69)」を掲載します。

                
               北村雨垂とその作品(69)

   無題 人誌癸

 運命の朝の男は 石の火を夢に

 夜が来ると 私のほたるが 遊びに行く

 たそがれの 運命を吹く ピエロに 風

 靜い血が 眞理を握(つか)む 夢に 聖書

 明日をみる 少年 夢を 懐中(ふところ) に

 朝が来ると 私のほたるが 帰て来る

 メロディの図式に吠いた おかしな 犬

 同情と羞痴 公孫樹(いてう)に 風がある

 虹を紡ぐ女神(モイラ) は叩(?)かれスフィンクスも叩(?)かれ

 乞食の鐘 欲しげなる みのむしの

 運命の 夜の女に ペルシャの仔猫


   無題 武玉川  7,8集 1971年(昭和46年)11月20日

 部落を 夢に 寝たる 山脈

 歴史ばかりの 干乾びた 庭

 ことばの渦に 歴史 流れる

 化石 語らず 氷河 語らず

 ふたごころなく 合歓(ねむ)の花 散る


   武玉川  10集  1972年(昭和47年)6月

 音もなく 地蔵の顔に 椿 散る

 絨毯(じゅうたん)を 姉と妹に れんげそう

 山の夕べは 溜息となる 霧

 こんにちは 水仙 青空を 胡蝶

 耳を澄ませて 夜桜の 散る

 タンポポの マルコポーロは 気流に乗り


  無題  武玉川  11集

 あやめの池に開く からかさ

 無風にゆらぐ 桔梗の舞台は 悲劇の歴史

 釋迦も 素足 キリストも 素足 大地を行く

 深淵に ひとつの顔が 泣く 笑(わら)う

 鏡が描いた 風化した 猊

 梅雨(ツユ)の舗道を 人形の首

 娘ごころを 見てる 紫陽花