先日渋谷オーディトリウムに「“私”を生きる」を観に行きましたが、その時映画が終わって監督と映画の出演者の一人である以前三鷹高校の校長をされていた土肥信雄さんのトークがありました。その時も1月30日に東京地裁で土肥信雄さんの裁判の判決が出ることになっていると伺っていました。土肥信雄さんの裁判は、東京都教育委員会を訴えて「学校における言論の自由」の不当な介入と、「非常勤教員不合格処分」対する損害賠償請求として2年半の裁判が行われてきました。私の裁判支援をしてくださっているある方から、土肥信雄さんの裁判が私の裁判の参考になると思うので、一度傍聴したらと勧められて、昨年10月だったと思いますが、土肥裁判の傍聴に行ったことがあります。その時の裁判長が転勤になり、別の裁判長に代わるので、結審が少し遅れるということを聞いていました。その裁判後の報告会でも、審理が終わり結審する段階になって裁判長が代わるということに対して、一抹の危惧が表明されていましたが、実際にそのようになってしまったようです。東京地裁民事19部古久保正人裁判長は、本日、「原告・土肥信雄の請求を棄却する」とする、土肥さんとその支援者には信じられない不当判決が下されました。土肥さんは、最低でも、これだけ生徒や保護者の信頼を得ている自分が、「非常勤教員不合格」にされたことについては、勝てるに違いないと思っていたようです。しかし、判決は、土肥さんの請求をすべて棄却し、被告である都(教育委員会)の主張だけを全面的に受け入れたものだったようです。 それどころか、その被告・都(教育委員会)の主張を補完し上回る認定をするという、常識では考えられない最悪の判決内容だったようです(以上「土肥裁判ニュースから」)。土肥さんは当然控訴するでしょう。
土肥裁判の東京地裁の判決を知って、東京都と日本基督教団とは違いますが、私の裁判もあらゆる可能性を予測しながら取り組んでいかなければならないと、強く思わされました。
今日は「黙想と祈りの夕べ通信(79、復刻版)」を掲載します。
黙想と祈りの夕べ(通信 79[-27] 2001・4・1発行)
「分かち合い」で一人の姉妹が、その日の通信の『ルタ-による日々のみことば』にありました「まことの従順」との関連で、以下のような発言をしました。私たち人間が良かれと思って計画することが、必ずしも神のみ旨にかなうかどうかは分からない。ルタ-の言葉のように、「わたしたちの良い思いは更によりよいものとされるために妨げられ」ることもあるわけです。今日の総会での発言のように、企業では社員の平均年令でその企業の業績が問われるという例が引かれ、教会の高齢化を憂え、若者への伝道の必要が語られた。私は、敢えて男と女の違いを強調するつもりはないが、男性の発言には社会的な趨勢の影響が強いように思われる。その点、女性の方が自由な感受性をもつことができるように思う。社会的な立場に捕われない自由な発想ができるのは女性の方ではないか。役員会は男性が多い。ルタ-のことばのように、神のみ心によらなければ何事も実現できないとは思うが、女性の役員候補者の辞退が多かったのは残念である。もっともっと女性の自由な発想が教会の中にも反映されたらと思う。教会では婦人会にお茶くみや掃除のような働きが期待されるが、もっと女性のもっている感性や自由な発想が教会の中で用いられるようになればと願う。今日の説教でも語られたように、非日常からの発想を教会はもっともっと取り入れてよいのではないか。若い人が少ないと言われるが、日曜日朝出ずらい若い人の状況がどれだけ理解されているのだろうか。むしろ教会に魅力があるかどうかではないか。教会がもっともっと非日常的な面をもち、魅力があれば、声高に若い人をと言わなくても、教会に来るのではないか。日曜学校では若いお母さんにスタッフをお願いしたら、引き受けてくれた。若い人へのバトンタッチは、単なる機能的な面ではなく、別の面で求められているのではないか。
私は、しばらく教会に来ていない青年を数日前に街で見かけ、その青年がかかえている重荷のことを思いながら、私たちの教会が弱さや痛みをもつ者を受け入れられる教会でありたいと思う、ということを話しました。今日の教会総会気任癲意見の一つとして述べられました障がいをもつ方々に開かれた教会という点においても、私たちの教会には障がいをもつ方々を排除するバリアがあるのかも知れません。以前にも私たちの教会員であったお父さんが、年老いて弱って来たときに、教会の礼拝に行きたがらなくなったということを、そのご子息から伺ったことがあります。そのお父さんは、老いた自分の弱さをありのまま曝け出しては教会には行かれないと思われていたというのです。そのご子息も、本当はそういう弱さのままで行かれるような教会でなければと思うのだが、と言っていました。教会は人間の集まりです。当然集まってくる人たちによって作り出される人間的な共同性が生まれます。そのような人間的な共同性を、信仰告白や教義を優先することによって抑えて、建前としての信仰の一致を前面に出す教会もあります。私たちの教会は、そうではなく集まった人の人間的な共同性が前面に出やすい伝統を継承している教会です。とすれば、私たちの教会に集まっている人が、いかにイエスの福音によって変えられるか、そしてその変えられた人間としての共同性が、いかに福音的なものになり得るかにかかっているように思います。そのような方向でそれぞれが生きることではないでしょうか。そこから生まれる教会の共同性が弱さや痛みをもつ者に共感を与えることができればと願わずにはおれません。