なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

控訴審判決について(お礼・報告・お願い)

             控訴審判決について(お礼・報告・お願い)

 皆様へ、


 私の裁判へのご支援をここから感謝申し上げます。

 さて、昨日7月10日、私の裁判の控訴審判決が出ました。「本件訴訟を却下する」という一言の5秒で終

わりました。残念ですが、この事実は受けとめなければならないと思っています。

 控訴審後の報告集会で、私の決意表明として「上告する」旨申し上げました。
 
 今回の私の訴えのような民事裁判では、最高裁は一審、二審のような口頭弁論の場はないようです。書

類だけで審査が行われるようです。従って、昨日の控訴審判決で、今後法廷が開かれ傍聴をお願いするこ

とはほぼなくなりました。ただ全くないとは言えません。最高裁で差し戻しの判決がでれば、実体審理に

入ることになりますので、その時は改めて傍聴をお願いしたいと思っています。

 さて、今回の私の裁判で私が考えていたことは二つです。一つは、日本基督教団内における私の戒規免

職処分は、聖餐の問題に焦点が当てられていますが、明らかに常議員会乃至教団から私を排除する一部の

人たちによる目論見であり、人権侵害に当たる出来事です。そこで私は、この教団内における人権侵害と

いう私の問題を黙認してしまったら、他の社会的な人権問題に関わる自分の立ち位置を失うと考えまし

た。ですから、私の上告に対して、審判委員会が教師委員会の私に対する戒規免職処分を正当であると判

断し、私の戒規免職処分が教団内において最終的に確定し、教団内においては、運動としてはあっても法

的に私の権利回復の道がなくなりましたので、「正教師の地位確認」等を司法に訴えました。

もう一つ司法に訴えた理由は、私に続いて、聖餐問題で教団から排除される人たちがでることを防ぎたい

と思ったからです。少なくとも私の裁判が継続している間は、現教団執行部が私に続いて聖餐問題で戒規

免職処分者を出すことはできないと考えたからです。

 さて、今後私が上告し、この問題が最高裁で審議されたとしても、弁護士の話では遅くとも来年初めに

は結果がでるのではということです。ですから、仮に最高裁でも私の訴えが棄却されますと、裁判闘争は

その段階で終了します。

 ただ現段階における裁判の論点は、私の免職処分の正当性を問うものではなく、その入り口に当たる

「正教師の地位確認が法律上の争訟に値するか否か」という問題で争われています。一審判決も今回の高

裁判決も「正教師の地位は宗教的な地位であって法律上の地位ではない」という判断です。正教師が教会

に招聘されて謝儀等の生活権を保障されているのは、当該教会との準委任関係からであって、直接教団と

は関係ないというのです。このことは、教団が私にしたように戒規免職処分によって正教師の身分を剥奪

し、教会の担任教師の職を解任しても、その教師の生活権に関して教団は何等責任がないということを意

味します。ひどい話です。

 もう一つの問題は戒規についてです。私は「正教師の地位確認」と共に「年金減額決定無効確認」を訴

えましたが、その関連で、戒規は悔改めを求める宗教的な教義・信仰の内容に関わるものであり、戒規処

分の是非の判断は、その戒規の宗教上の性格を問わずには出来ないので、裁判所は扱えないということ

で、この訴えも却下されました。これではどんなに不当な戒規処分が行われても、戒規は宗教的な教義・

信仰に関わるから、裁判所がそこに立ち入ることはできなということを意味します。ということは、教団

の中でどんな戒規執行がなされても、司法による救済の道はないということです。これもまたひどい話で

す。
 
 ということで、今回の私の裁判では、私の訴えが法律上の争いに値するか否かという入口のところの問

題で、今回の高裁判決までの段階では、「値しない」という判断が出たということです。洗礼を受けてい

ない者にも、希望すれば聖餐に与れる開かれた聖餐式の執行がいけないとか、私の免職処分が正当であっ

たとかというような問題には一切踏み込んでいません。もちろん、特に聖餐式の在り方について司法の判

断を求めることはありません。ですから、教団執行部側が、今回の高裁判決を受けてどのようなプロバガ

ンダをしてくるか分かりませんが、くれぐれもこの高裁判決によって、現在までの教団執行部の聖餐式

関する考え方や私への戒規免職処分の正当性が認められたということはありませんので、そのことをお覚

えいただきたいと思います。また、そのように誤解している方がおられましたら、この点をよく説明して

いただければ幸いです。
  
 なお、今後最高裁での闘いと共に、ますます教団内における、現執行部の統制による教団形成ではな

く、違いを認め合った上での対話による合同教会としての教団形成に力を注いて行かなければなりませ

ん。私の裁判へのご支援と共に、各地にあって「力に依らず情理を尽くした運動」(関田寛雄)の展開を

お願したいと思います。

 今度ともどうぞよろしくお願いいたします。

                          2013年7月11日

                                北 村 慈 郎