なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(65、復刻版)

 下記に記されています「バラバラの一緒」は、その後紅葉坂教会の日曜学校だけでなく、教会全体のテーマとして、いろいろな機会に用いられていきました。金子みすずの「みんなちがってみんないい」と共に。私の著書『自立と共生の場としての教会』の中でも、この二つのコピーが出ています。2007年10月に私が当時の教団議長から教師退任勧告を受けてから、釜ケ崎の本田哲郎神父が、上記の私の本についての書評を『福音と世界』に書いてくださったことがあります。その本田神父の書評は、大方私が書いたことに好意的でしたが、「バラバラの一緒」と「みんなちがってみんないい」については批判的な意見を述べておられました。このコピーのニュアンスでは、支配・被支配、抑圧・被抑圧という社会の構造的な差別を見えなくしてしまうのではないかという批判だったように思います。本田神父は最も小さくされている人への共感と連帯という、「みんな」ではなく、「一つの」立場・視座に選んで立つことが重要ではないかというのです。以下の黙想と祈りの夕べ通信を読みながら、そんなことを思い出しました。今日は青年5人が鶴巻に遊びに来て、楽しい時を持ちました。

 「黙想と祈りの夕べ通信(65、復刻版)」を掲載します。

         黙想と祈りの夕べ (通信 65[-13] 2000・12・24発行)

 この「通信」で「黙想と祈りの夕べ」の「分かち合い」の時に諸兄姉から語られたことを、私なりにまとめて載せていますが、実際に語られた内容そのままではないことを、ご了解下さい。私のメモを頼りに、私の感じたことでこれは大切ではないかと思うことを、できるだけ話された方に即して書くようにしていますが、あくまでも私の受け止めたものでありますので、すべては私の責任で書かせていただいています。17日の日曜日は、礼拝の後に日曜学校のクリスマス礼拝と祝会、そして午後2時半から東洋英和の高等学校のハンドベル部の演奏会が続いてありました。終わって後片付けしましたら、5時近くになっていました。「黙想と祈りの夕べ」は3人の出席で、いつもの集いの後のお茶を飲みながらの交わりの時はなしにして、散会しました。「分かち合い」の時に、二人の姉妹が以下のような話をしてくれました。

 今日はここちよい疲れを覚えている。Nさんの「バラバラの一緒」という言葉が、いろいろと使われているが、そのことを今日は実感させられた。東洋英和の高校生18名が、一人一人一生懸命それぞれ違ったベルをもって、体全体でそのベルを振っている姿は、それぞれバラバラだが、全体で美しい音楽ができている。また、日曜学校のクリスマス礼拝では、みんなで作ったアドベントカレンダ-に、子供たちが一人一人セリフを言って、自分たちが描いた絵を掛けていった。そのとき壁に映されたスライドは、YさんとNさんが考えてくれたものである。子供たちのセリフは、その場で台本を見ての朗読でよかったのに、中には暗記している子供もいた。それぞれ一人一人がその人なりに、またその子なりに準備し、それぞれの役割を果たしたときに、全体として大変美しい。そこには、何か、一人一人が精一杯やることを、全体を見ていて下さる神さまが祝福して下さっているような感じがする。東洋英和の高校生のハンドベルの演奏と、日曜学校の子供たち、スタッフを通して、一人一人が自分のできることを一生懸命に生きることが、全体として美しい「バラバラの一緒」に繋がることを実感させられたと。

 また一人の姉妹は、ご自身の体調との関わりで、友人や知人から教えられたことを語られました。今日の礼拝の説教では、神の日を待ち望みつつ、ありのままを受け容れて生きることを教えられたが、受容はキリスト教の専売特許ではない。ヘルパ-で知合った友人から事あるごとに教えられている。自分の体調がよくなかった時に、安静を勧めらた。ひとりの人は、組織はあなたがいなくても、代わりの人があてがわれる。至上命令だらら休めと言われ、二週間の安静の時間をとった。もうひとりの人は、それでもよくならなかったら、もう一度やってみたらと言ってくれた。日本に何人しかいない障害をもった子どもを育てている人が、何度も裏切られながら生きてきた。そういう彼女からの励ましで自分も力を与えられる。神さまがいらっしゃるのかわからないが、彼女は、何で、と何度も問いかけてきた。自分はまだまだ未熟なので受容できないことが多いが、いろいろな場面で、いろいろな人に支えられながらやっていきたいと思っていると。

 本日24日(日)の「黙想と祈りの夕べ」は燭火礼拝となりますので、お休みにします。エルサレムではなくベツレヘムで、王宮ではなく家畜小屋でお生れになったイエスさまの誕生を祝うクリスマスの喜びが、その喜びを必要とするすべての人の上にありますように。