なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

父北村雨垂とその作品(60)

 「父北村雨垂とその作品(60)」を掲載します。昨年の暮れに鶴巻と船越教会の往復の電車の中で読んだ吉本隆明『「情況への発言」全集成2 1976-1983』(洋泉社新書、2008)の「新書版へのあとがき」で、吉本は歴史について以下のように記しています。

 「世界のグローバルな人口を仮に百億人だとすれば、この百億が任意にどう考え、また反対したり、争いが起こったりといった、生存のための日常性があって、その百億の総和またはインテグレーションが外的なある期間内の歴史であることは自明のことだ。/この百億人の行動を認知調査する代わりに、いかにその百億の近似的総和を最も正確に認知できている方法が歴史観(歴史理論・学説)にほかならないこともまた自明の理だ。このことを転倒してしまうことは、ひとにぎりの政治支配が自己の恣意によって歴史を従わせたり支配しようとしても不可能だということは、ヘーゲルマルクスのような偉大な思想家や、自由で平等な歴史家たちや、できるかぎり平等で公正で、できるかぎり百億の合意を象徴的に代弁したいと願う政治思想家たちが、根底で手放さなかった理念であった。/しかし人間はいつも転倒することができる。これは他の生物が『傾向』性をもつだけなのに人間は『転倒』をもちうる能力を獲得してしまった生物だからだ。思想的なイデオロギストが苛立たしいのはその根底を忘れて勝手に振舞ったり、いい気になったりしているからだ」(370-371)。

 吉本が言うように、現在も苛立たしい思想的なイデオロギストが大きな顔をして「自己の恣意によって歴史を従わせたり支配しようとして」いるように思われます。新しい年も、「できるかぎり平等で公正で」、できるかぎりすべての人間と自然の合意による世界をめざして、世界人口の一人として自分の与えられた場を大切にし、「生存のための日常性」を紡いでいきたいと願います。

                 父北村雨垂とその作品(60)

 てんぐ茸べにてんぐ茸 夜咲く街

 弁証の鐘を聴け 猫柳は 聾(つんぼ)
 
 原色の夢 女の夢 白は 矛盾

 泣いた法者が哄笑した 暗轉

 愛人を殺すといふか 純水は呑めぬ

 理智 無智 狡智 植民地の 情痴

 正午は過ぎた 街は発情した 土曜日

 食堂に 散らばっている顔だ哲学 無用

 音もなく 萩がこぼれて 動く夜

 食うことの 話のあげく 笑ひけり

 魂きらら 陽を跳ねかえし 学徒 往く

 轉業の群(むれ) 見送りて 崇き 朝

 病児抱(かか)え ねむれぬままに 世を移り

 雑炊の小松菜 明かるし 春は正し

 夏逝きて 土に 静寂(しじま)に 声 さわがし

 夏は去る 土は 孤獨の声 放つ

 猿が ピエロに 見せた 白い歯

 感情の一線 引いた 生活史

     
   妻 ユキを亡う 五句
      (以下五句なのか一句なのか判明不可。「ユキ」は姉二人の母で、兄、姉、妹と私の母は        「貞子」と言います)。

 暮(くれ) 惜しむ 梅一輪の 白い影

 酒で笑て 忘れけり 吾がいのち

 泥醉の果が 眞理を 口(くち)走り

 馬 遂に 汗のうえから 鞭(むち)うたれ

 三ヶ日 忙しや 母の 御姿


 
 突き出した 金銭(かね)に うっかり手を伸ばし

 一家心中に 子がひとり 残り

 生きがいを 知らぬ男に 児のありて

 蒼白い 鉄路(レール)の艶(つや)に 血が匂う

 食らうことの 外は 朱線が引いてある

 涙のうさを もらい 神々と 別る